こんにちは、凛です。
前回までは、『二ニギの天孫降臨』から『神武天皇の国内統治』までを紹介しました。
ここから話は、”神々の時代” から、”天皇統治” の時代へと移っていきます。
そして記述される内容も、「神話(物語)」の世界から、歴代天皇の功績や人生模様を記録する「歴史書」へと様変わりしていきます。
と、言うことで『日本神話』に書かれている歴代天皇たちの中で、私が「これは!」というものを、ピックアップして、プロフィールやエピソードを紹介していきたいと思います。それでは早速いってみましょー(*’▽’)
『日本神話 ショート・ショート』
【はじめに】
・最初にお伝えしたいのが、歴代天皇の記載に関しての『古事記』と『日本書記』の違いです。『古事記』には33代『推古天皇』までが、『日本書紀』では41代『持統天皇』までが書かれています。
・以前の記事で、天皇の名前は『おくり名』といって、天皇の死後に付けられると紹介しました。しかし、このコーナーでは理解しやすいように『おくり名』ベースで書かせていただきます。
・『日本神話』で物語として書かれているものを[神話]として紹介します。
・時代の移り変わりを理解していただくために、『(数字)=西暦』を記載しています。
≪~神話時代(弥生時代後期)~≫
【初代:神武天皇】
・初代天皇である『神武天皇』を描いた『神武東征』は、かなり壮大なストーリーとして描かれています。ですが『神武天皇』が ”実在” していたかどうかは、判明していません。
・『神武天皇』が亡くなったとされる年齢も、『古事記』では127歳、『日本書紀』では137歳で崩御したことになっています。これが ”作り話” 説になっている大きな理由のひとつです。確かに137歳なんて現代でも考えられないですよね。
しかし、この時代、1年に2歳ずつ(春と秋に)年齢が上がっていったという説もあり、判然としません。
[こぼれ話]
初代天皇である『神武天皇』が『橿原神宮』で即位したのが、紀元前660年の「2月11日」と言われています。これ何の日か知っていますか? そう、この初代天皇即位を記念して、『建国記念日』と定めているんですよ!
【2~9代:『欠史八代』】
・2代『綏靖天皇』から、9代『開化天皇』までは、名前はあるんだけど、詳しい事績が書かれていないなど、つじつまの合わないことが多い天皇です。そのため、「自分たちには”長い長い歴史” があるんだぞ!」、と示すために付け加えられた架空の天皇ではないかと言われています。この8世代の天皇は『欠史八代』と呼ばれています。
・もちろんのことですが、『神武天皇』を含め、その後の『欠史八代』が”存在しなかった”という証拠もありません。いずれにしてもモデルとなる人物がいたことは間違いないようです。
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【10代:崇神天皇】
・実在を確認できる最古の天皇とされています。
・中国の書物で、日本を紹介した歴史書『魏志倭人伝』に書かれていた『卑弥呼』と同じ時代に存在した天皇だと言われています。
・ちょっと怖い話ですが、王の死に際して、その陵墓に、臣下や妻などの縁故者、奴隷、動物などを ”生き埋め” にする『殉葬』という風習が世界各国で見られました。これは日本でも行われていて、この『崇神天皇』の時代に初めて『人垣=(殉葬者)』を陵墓に埋めたという記述があります。また「魏志倭人伝」にも、『卑弥呼』の死に伴って100名単位での殉葬者がいたと書かれています。
・フォローになっていないかもしれませんが、多くの古墳が調査発掘されていますが、実際に殉葬者が出てきたものや、その形跡は、ほとんどないそうです。ひょっとしたら、物語として書かれていただけで、実際にはそんなことは行われなかったかもしれませんね(と、願いたい・・・)
[神話]
天皇家では代々『アマテラス』と、『倭大国魂神』という神を『宮内(天皇の宮殿)』に一緒に祀っていました。
『崇神天皇』の時代に色々と災いが起きました。占った結果、案の定 ”2尊の神” が互いの強い神気で牽制し合い ”沸騰寸前” でした。
そこで『崇神天皇』は、2尊の神を宮内から出し、それぞれ別の場所でお祀りしようと考えました。『アマテラス』には、娘の『豊鍬入姫命』をつけ、笠縫村という場所でお祀りすることにしました。
一方、『倭大国魂神』は同じく崇神天皇の娘『渟名城入姫』をつけて、祀ろうとしましたが、姫は神気に圧され、痩せ細り、髪が抜け落ちたりして、まともにお祀りできませんでした。
[神話] 祟り神となったオオモノヌシ
そうしているうちに、民の半分が死ぬほどの疫病が大流行しました。
ある日、崇神天皇の夢の中に『大物主』が現れ、「祟りを起しているのは自分(大物主)」だと告げました。そのため「大物主」が居るとされる三輪山に『大神神社』を建立すると疫病は静まったといわれます。
[ちょっと整理しましょう!]
・天皇家に代々、祀ってあったのは『アマテラス』と『倭大国魂神』でした。この『倭大国魂神』はここで初めて登場する神様です。
えっ、『大国主』じゃないの?と思うかもしれません。ですが、「そう言う説もある」としか言えません。
確かに「大国主」であれば、“地上界の最高神”とそれを奪う形になった“天上界の最高神”が仲良く並べられていたら気まずくて居心地悪いだろうなぁと想像できます。
実際に日本書記には「並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安」(天皇の大殿で並んで祭られていて、神たちの勢いが畏れ多くて、一緒にいて安らげない)と書かれていますし・・・。
でも『大国主』の御魂は『出雲大社』にお祀りされているんです。これが、「大国主」と「倭大国魂神」が違う神であるとする理由です。
「倭大国魂神」は「日本大国魂神」と表記される場合もあります。
次に出てくる「オオモノヌシ」という神がさらに話をややこしくしているんですよね。
結局、疫病を流行らせた神は『アマテラス』でも『倭大国魂神』でもなく、『大物主』だったというオチなんです。
「大物主」といえば、『大国主』を助けて『葦原中国:地上界』で共に国造りをした神でしたよね。実は『大国主』の「和魂=もうひとつの自分」だったのでは?とも言われていました。『大物主』が出てきたんだから、大国主でしょ!という発想ですね、まるで“引っ掛け”です。
じゃあ、皇女の『渟名城入姫』が髪が抜けるほど、ネチネチと祟った『倭大国魂神』はどうなったの? と思いますよね。その後、『倭大国魂神』からのお告げにより奈良県天理市にある(現)『大和神社』に祀られて、ようやく収まったと伝えられています。
結論として『崇神天皇』の時代、『倭大国魂神』と『大物主』というまったく違う神がそれぞれ祟りを起していたということになります。
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【11代:垂仁天皇】
・多くの殉葬者が苦しみ死んでいく姿を嘆き、殉葬を禁止したと言われています。また、生き埋めの代わりに人型や馬型の『埴輪』を古墳の周りに置いたとされています。
・『伊勢神宮』の建立を命じ、娘の『倭比売命(ヤマト姫)』を初代『斎宮』として派遣する。
・『斎宮』とは、伊勢神宮に天皇の代わりに遣わされる役職。独身の皇女から選ばれていました。(基本は、遣わした天皇が譲位するまで宮に仕えます)
【倭比売命(ヤマト姫)】
『ヤマト姫』は『日本武尊(ヤマトタケル)』の叔母(父:景行天皇の妹)にあたり『ヤマトタケル』のクマソ征伐の際に女装をさせたり、関東遠征へ出掛ける際に『草薙剣』を持たせたりして支援します。
[神話] 『ヤマト姫』が『アマテラス』を伊勢に導く。
先代の『崇神天皇』は『アマテラス』を宮殿とは別の場所で祀ることにしました。
その時 祀っていたのが「豊鍬入姫命」です。『ヤマト姫』から見ると叔母に当たります。
父の『垂仁天皇』の代になり、その役目は『ヤマト姫』に引き継がれます。
ヤマト姫は『アマテラス』の御杖代(案内役)として、より相応しい場所がないかを探し求め、全国を旅して回ります。
ヤマト姫が伊勢に辿り着くと、「この素晴らしい伊勢の地が良い!」というお告げを受けました。 このことを父『垂仁天皇』に報告すると、天皇は『アマテラス』を祀るために伊勢神宮を建立し、ヤマト姫を『斎宮』に据えたのでした。
・『アマテラス』を “お祀りする” とは、どういうことでしょうか? 天孫降臨の際、『アマテラス』は降臨する神々に『八咫の鏡』を託し、「私の魂(分身)として崇拝しなさい」と命じましたよね。つまり『アマテラス』は“魂”となり、“八咫の鏡”に宿っているわけです。 豊鍬入姫命もヤマト姫も、その後の斎宮も、この鏡を受け継いでお祀りしているんですね。
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【12代:景行天皇】
・この天皇は何と言っても息子の『日本武尊(ヤマトタケル)』との絡みが最大の特徴です。と、いうより『古事記』には『ヤマトタケル』しか書かれていないと言っても良いほどです。
[神話] 英雄『日本武尊の偉業』
『景行天皇』にはたくさんの妻と80人もの子がいました。
このうち皇后の子『ワカタラシヒコ(成務天皇)』と弟の『イオキのいりひこ』、異母兄弟の『オウス(日本武尊)』の3人は皇太子に選ばれ、残りの77人はそれぞれの地域の長(国造・県主など)となりました。
この3人にも、他の77人にも入ってはいませんが、実はもう1人、『オウス』の双子の兄『オオウス』という皇子もいました。本来であれば『オオウス』も皇太子となるはずでした。そう、生きてさえいれば・・・。
今から少し前の話です。『景行天皇』が大変美しいと噂の姉妹を新しい妃として迎えることになり、双子の兄『オオウス』を遣わせて妃たちを迎えに行かせます。ところが、『オオウス』はその美しい女性たちを自分の妻にして、父(景行天皇)へは別の女性を差し向けました。
景行天皇はそのことに気付きましたが、何もせずに、ただただ悩んでいるだけでした。
『オオウス』は気まずいのか、天皇の前に顔を出さなくなりました。そこで天皇は『オウス』に兄を優しく諭して連れてくるように命じます。それからしばらくしても、兄が姿を見せないので『オウス』にまだ兄を諭していないのかと尋ねました。ところが、『オウス』はとっくに諭したと答えます。どういうことなのかを問い詰めると、「待ち伏せして、捕まえて、打ちのめしたあと、斬り捨てました」と言い出しました。『オウス』が、ひょうひょうと答える姿を見て、景行天皇は恐ろしくなりました。
ちょうどその頃、九州の豪族『クマソ』が朝廷にまったく従わないので困っていました。そこで景行天皇は『オウス』にクマソ征伐を命じました。ほとんど身ひとつで投げ出された『オウス』は困って伊勢の『倭姫(ヤマト姫)』のもとを訪れます。『ヤマト姫』は『オウス』の叔母にあたる皇女で、伊勢神宮に仕える斎宮です。『ヤマト姫』はクマソ征伐に向かう『オウス』に『女性の着物』と『懐刀(短刀のこと)』を与えました。そうして、『オウス』は九州に向かいます。
クマソの国に入ると、クマソの一族はちょうど宴の準備をしているところでした。そこで刀を懐に忍ばせ、『ヤマト姫』に渡された女性用の着物を着て、髪を解いて宴に紛れ込みます。(イメージ)
宴は大いに盛り上がり、酔いも回ってきた頃、クマソの首長の兄弟が、(女装した)『オウス』の姿が気に入って隣に座らせて酒を注がせました。宴もたけなわとなってきて、兄弟の気が緩んできたのを見計らって、『オウス』は首長の兄を引き寄せて刀で一突きにしてしまいました。弟は思わず驚き、慌てて逃げましたが、同じく一突きにしてしまいました。この時クマソの弟が息絶える前に「オウス」のことを『日本武尊(ヤマトタケル)』と呼びました。これは“大和の勇敢な男”といった意味です。以後、『オウス』は『ヤマトタケル』と呼ばれるようになりました。
こうしてクマソを平定した『ヤマトタケル』は、そのまま朝廷に反抗的だった『出雲健(出雲タケル)』のもとへ向かいます。身分を隠し、友として近づいた『ヤマトタケル』は、遊びの中で自分の持っていた模造刀と『出雲タケル』の刀を交換してチャンバラをします。刀が鞘から抜けずに困っている『出雲タケル』を斬り殺してしまいました。
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『ヤマトタケル』は意気揚々と都に戻り、クマソと出雲の平定を報告します。ところが、『景行天皇』は間髪を入れず、『ヤマトタケル』に「東国12か国」の荒ぶる神々と、朝廷に従わない者たちが大勢いるので、行って平定するように命じました。この時も、『ヤマトタケル』に持たされたのは『ヒイラギの矛』一本だけでした。
東国へ向かう途中で、『ヤマトタケル』は再び、伊勢の『ヤマト姫』のもとを訪れます。そこで『ヤマトタケル』はこんな弱音を吐きます。「西方の遠征から帰ったばかりだというのに、今度はもっと大変な東国の平定を命じるなんて、父(景行天皇)は私に死ねと言っているんだ」と。そこで『ヤマト姫』は『草薙剣』と『袋』を与えました。
東国へ向け出発した『ヤマトタケル』は、『尾張(愛知県あたり)』で『ミヤズ姫』と恋に落ち、東国平定が済んだら必ず迎えに来ると約束(婚約)して再び東へ向かいます。
『駿河国(静岡県あたり)』では、国造(役人の長)が、「この原っぱの中に沼があるのですが、そこにいる神が暴れて困っているのです」と泣きついてきました。『ヤマトタケル』が様子を見に野原に分け入っていくと国造が本性を現します。国造は『ヤマトタケル』を陥れようと騙していたのです。『ヤマトタケル』のいる野原に向け火を放ちます。火に囲まれた『ヤマトタケル』は逃げ場を失いますが、『ヤマト姫』から貰った袋を開けると火打石が入っていました。『草薙剣』を使って枯草を切り払って集め、その石で火を起こし、迎え火をして、国造が放った炎を退けます。こうして難を逃れ、騙した国造を成敗しました。(イメージ)
・それ以来この地は『焼津』と呼ばれるようになりました。
・また『草薙剣』とは、この「草を薙ぎ払った剣」であることから、後世になって呼ばれはじめたとも言われています。
その後、失言から海の神の怒りを買い、嵐を起こされ、船が進めなくなります。しかし『弟橘姫』が代わりに海に身を投げることで嵐が収まったり、足柄山(静岡と神奈川の境)で『白鹿(山の神)』に合い、鎮魂したりしました。『筑波国(茨城)』、『甲斐国(山梨)』、『信濃国(長野)』と順調に平定し、ようやく東国征伐もひと段落が着こうとしていました。
そこで婚約していた尾張の『ミヤズ姫』のもとへ向かい結婚しました。それから『息吹山=現:伊吹山』に棲む荒ぶる神を鎮魂しに向かうのですが、これまでの順調な東国平定で『ヤマトタケル』には、「傲り」が生まれていました。『草薙剣』を『ミヤズ姫』に預けて、素手で相手すると意気込んで『息吹山』に向かいました。山を登り始めると大きな『白い猪』と遭遇しましたが、ここでも慢心の『ヤマトタケル』はそれを “神の遣い” 程度に考え、相手にしませんでした。
しかしそれが大きな間違いでした。白い猪は息吹山の神そのものでした。相手を軽く見た『ヤマトタケル』は神の怒りに触れ、雹や幻惑など散々な目に遭ってしまいます。フラフラになりながら、ようやく山から逃げ出します。満身創痍で大和に向け帰ろうとしますが、どんどん体力も気力も弱まっていきます。『ヤマトタケル』は自分の最後を悟ってか、故郷や、妻たち、残してきた剣などの思い出を歌にして詠み、とうとう大きな白い鳥となって天に昇っていってしまいました。
故郷の大和を思って読んだ歌
『倭は 国の真秀ろば 畳なづく 青垣 山籠れる 倭し麗し』
【私流現代語訳】
「大和」は国の中で ”一番良いところ” だよ。幾重にも重なった青い垣根のように、山に囲まれててさ。あー大和は本当に美しいなぁ。
こうして、『ヤマトタケル』を偲んで『白鳥御陵』と呼ばれる陵墓を作り、魂をお祀りしたそうです。
ここで、日本神話の中で『英雄』として書かれた『日本武尊』のお話は終わりになります。
『白鳥御陵』は「古事記」と「日本書紀」で、それぞれ場所が異なります。
最初に『ヤマトタケル』が亡くなったとされる『伊勢国 能褒野(三重県 亀山市)』に『陵』を造ったんですけど、白鳥になって飛び立っちゃったんですよね。ここまでは両記とも一緒・・・。
「古事記」では、その後「河内国 志幾」 (大阪府 羽曳野市)へ降り立ったので陵を造ってお祀りしました。
→『軽里大塚古墳』
「日本書紀」では、その後「大和国 琴弾原(奈良県 御所市)」へ降り立ち『陵』を築いたら、またまた飛び立っちゃって、最後は「河内国 旧市邑」 (大阪府 羽曳野市)へ降り立ち、ここも気に入らなかったのか、最後は天の登ってしまう Σ(・ω・ノ)ノ! という伝承があります。
→『琴弾原 白鳥陵』
臣下も大変です(>_<)・・・。
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【13代:成務天皇】
・景行天皇の子であり、日本武尊の異母弟。
・『国と県(今でいう県と市区町村)』を制定し、不明瞭だった国境などを整備しました。
・『国』には『国造』、『県』には『県主』を首長として派遣します。
・これらは本格的な律令制度の足掛かりになる大事業ですが、あまり大々的に扱われていない可愛そうな天皇とも言えます。
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【14代:仲哀天皇】
・『ヤマトタケル』の子であり、后は『神功皇后』
[神話] 住吉3神のお告げと朝鮮遠征①
『仲哀天皇』が九州の反乱を鎮めるための準備をしていたときのこと、妃の神功皇后に神が降りました。降りてきた神は『住吉3神』で、「ここより西に国があり、そこには金銀財宝がたくさんある。お前にその国を与えよう」と言いますが、仲哀天皇は「ここから西には海しかない」と、お告げを信じませんでした。すると、神は激しく怒り、すぐに天皇を呪い殺してしまいました。
恐れをなした家臣たちが、“神降しの儀式”を行うと、再び『神功皇后』に神が降りてきます。そして、「この国は、今(皇后が)身籠っている子が治めるべき国である」ことと、「西の国を手に入れる方法」を告げて消えました。皇后は神が教えた通りに軍を集め、船を並べて、西の国へ進撃します。(神功皇后へ続く)
・西の国=「朝鮮半島」のことでした。当時朝鮮半島では多くの金や銀が産出されていました。こうして以後、国家として朝鮮へ権力を進出させていくことになります。
・この時代の朝鮮は『新羅』『高句麗』『百済』の3国が覇権を巡って争っている『三国時代でした』
・『住吉3神』は『イザナギ』が黄泉の国の『穢れ』を祓った際に「水面、水中、水底」から、『ワタツミ3神』と共に生まれた神です。
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【神功皇后】
・『仲哀天皇』の『皇后(正室・第一婦人)』で15代『応神天皇』の母。仲哀天皇の死後、応神天皇の即位まで、皇后として実権を振るう女傑です。後にも先にも実権を担っていた女性皇族の中で、最も繁栄した時代を築いたスーパーウーマンです。
後の世代の天皇たちが、あの時代は凄かったらしいよ!と噂し、憧れ、目標とする程の栄華を極めたとされています。
[神話] 住吉3神のお告げと朝鮮遠征②
お腹に子を抱えたまま、神のお告げに従い、朝鮮を目指す皇后軍。その船の立てる波はたちまち津波となって『新羅』の国の半分を飲み込みました。新羅の国王は恐ろしくなり、「今後は並べた船の船体が乾くことが無いほど、奔走して、天皇にお仕えします」と言い屈服しました。
[神話] 陣痛を石で抑え戦った皇后
まだ朝鮮を攻めていたとき、『神功皇后』は、急に産気づきましたが、石を腰につけ陣痛を抑えました。そして勝利の後、筑紫国(福岡)まで戻り、ようやくそこで「応神天皇」を出産しました。この時、応神天皇が産まれた地を『宇美』と言い、腰に付けた石は『鎮懐石』と呼ぶようになりました。
・宇美には『宇美神社』が鎮座しています。また、『鎮懐石』は福岡県糸島市の『鎮懐石八幡宮』に祀られています。
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≪古墳時代~≫
【15代:応神天皇】
・中国や朝鮮などから文化や技術を積極的に輸入して国造りを進めた天皇です。
・母『神功皇后』に神が降り、生まれる前から、既に「天皇」となるようお告げがあったことから『胎中天皇』とも呼ばれました。
[こぼれ話]
仲哀天皇が崩御して、朝鮮へ進攻した『神功皇后』。さらに産気を抑えて、九州まで戻って出産って・・・。
ご懐妊から出産まで『十月十日』どころじゃないですよね。ひょっとして・・・?
そうなんです、ひょっとしたら仲哀天皇の子じゃないかも!なんて説もあるんです。そこで、石を抱いて、「産気を遅らせた」なんて“にわか”には信じられない話まで持ち出して、無理やり帳尻を合わせていたんだとしたら・・・怖っ!
まぁ、あくまでひとつの仮説ですから。 私は鎮懐石を信じますよ 笑
・神話では『髪長比売』という美しい女性を后にと呼び寄せたのですが、子の『仁徳天皇』が惚れてしまい、その情熱にほだされとうとう宴の席で譲るというシーンが描かれています。
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【16代:仁徳天皇】
・国内最大級の『仁徳天皇陵(前方後円墳)』(大阪府堺市)が繁栄を物語っています。
[神話] 民の生活を案じた聖帝
天皇が高い山に登り、国を見てみると、民の家の釜戸から煙がまったく上がっていませんでした。民が貧窮していることを察した天皇は、3年間、税も使役も免除します。そのため、天皇の宮殿が雨漏りしても、修理もしないで耐えました。こうして、人々の生活が安定し、ようやく徴税を再開し、人々からは『聖帝』と呼ばれ崇められました。
・この頃になると、大陸から入ってきた『儒教』が広まり、天皇の功績によって、自分達の一族だけでなく、『民』も救われるという記述が多くなります。
・ところが神話ではこんな美談だけではなく、「浮気性の天皇と嫉妬深い后」としても描かれています。
・『仁徳天皇陵(前方後円墳)=大山陵古墳』(大阪府堺市)はエジプトのピラミッド、中国の始皇帝陵と並んで『世界三大墳墓』と呼ばれ、当時の繁栄を物語っています。なんと完成まで20年もかかったらしいいですよ!
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【17代:履中天皇】
・仁徳天皇の子で4兄弟の長男。
[こぼれ話]
当時、天皇ら皇族の顔はあまりさらされることはなく、たとえ婚姻をする場合でも、女性は天皇の顔を知らないことも珍しくはありませんでした。そんな時代のお話です。
『履中天皇』には即位する前から、『黒姫』という婚約者がいました。先代の仁徳天皇が崩御されたため、喪が明けたら婚礼の儀を挙げる予定でした。そこで喪が明ける時期を、『黒姫』に伝えるよう弟(次男)の『住吉仲皇子』に命じました。
ところが、この『住吉仲皇子』は、こともあろうか自分が天皇だと偽って、姫を横取りしてしまいます。嘘か本当か、帳の中では相手の顔も見えません。『住吉仲皇子』が夜明け前に帰っていくと、枕元に『住吉仲皇子』が付けていた鈴が落ちていました。
これは『履中天皇』が、“また逢いに来てくれるというメッセージ”だと考え『黒姫』は嬉しくなりました。
ほどなくして『履中天皇』が『黒姫』のもとを訪れます。帳の中で『黒姫』の持っている鈴が鳴り響きます。『履中天皇』はその鈴が気になり尋ねると『殿下が先日いらした時に、私に預けてくれた鈴ではございませんか、もうお忘れですか?』と、とても可愛らしく怒ります。
こうして企みが露見した『住吉仲皇子』は、今度は兄『履中天皇』の命を奪おうと兵を挙げます。履中天皇は一旦は都を追われますが、弟(3男:のちの反正天皇)と共に戦い、『住吉仲皇子』を下しました。
その後、『黒姫』を正式に皇后として迎え入れ、時には宮中の池に船を浮かべたり、お花見をして遊んだりと、とにかく仲睦まじく楽しい時を過ごしました。
ある日、夢に筑紫の3神(宗像三女神)が現れ、「筑紫の民を奪うなら、お前に恥をかかせるぞ」と天皇に告げました。天皇は大して気にもかけず、大好きな『黒姫』と遊んでばかりいました。
ところが、数日後、『黒姫』は急死してしまいます。天皇が筑紫を調べさせると、筑紫に派遣していた臣下が勝手に土地のものを略奪していることが判明しました。
天皇はお告げがあったにも関わらず、原因を追及することも、神の祟りを鎮めることもしなかった自分を責め、『黒姫』の死を嘆き、悲しみに暮れたまま、1年後には天皇自身も崩御されました。
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【18代:反正天皇】
・仁徳天皇の子で4兄弟の3男。兄は『履中天皇』、弟は『允恭天皇』
[こぼれ話] 天皇だって歯が命!
生まれながらにして容姿端麗、特に歯が綺麗に生えそろっていて、『水歯別命』とも呼ばれました。「芸能人は歯が命!」と言いますが、天皇は1600年以上前から「水歯が別命!」だったんですね 笑
それにしても、産まれたてで歯が綺麗に生えてたらお母さん大変そう・・・。あっ、乳母さんが大変なのか!
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【19代:允恭天皇】
・仁徳天皇の子で4兄弟の末っ子。兄に『履中天皇』『反正天皇』
・生まれつき病弱で、先代の兄『反正天皇』の崩御に伴って、臣下から再三に渡り即位を促されます。しかし病弱で “歩くこともままならない” 身の上を悲観し、他の者に皇位継承権を譲りたいと、断り続けました。
結局、後の皇后となる『忍坂大中姫』に懇願されて即位することに・・・。
…にも関わらず、かなり強引に皇后の妹『衣通姫(そとおり姫)』を妃(第2夫人)として取り立てます。それからは“狩り行く”と嘘をついては足しげく妹のもとへ通いました。歩けないほどなのに?へぇ~(≖ ‿ ≖)
[こぼれ話] 『衣通姫伝説』
允恭天皇の妃となった『衣通姫(そとおり姫)』は “衣を通しても輝くほど美しい” と言われ、その美しさは、後に『日本三美人(朝本三美人)』と称されるほどです。でも当の本人は允恭天皇との婚姻を望んだわけではありませんでした。そんな気持ちとは裏腹に、『允恭天皇』は美しい妹ばかりを寵愛し、やがて姉で皇后の『忍坂大中姫』との間に確執も生まれてしまいます。
そんな中、『そとおり姫』には、互いに惹かれ合う、同母兄である『木梨軽皇子』がいました。いつしか二人は密かに結ばれてしまいます。
ある朝、『允恭天皇』が朝食を食べようとしたところ、冬でもないのに汁物が凍っていることに気づきます。不吉な予感がして、占ってみると、『そとおり姫』と兄『かるみこ』が通じていると出ました。問い詰めると、それは真実であることが判明し、『かるみこ』は遠い国への島流しにあってしまいます。『かるみこ』を思うあまり、『そとおり姫』は命からがら脱出し、島流しの地へ渡ります。そこで再会した2人はとても逃げ切れないと悟って、そろって命を絶ってしまいました。
・神話時代に比べると、ようやくこの時代になって近縁者間の婚姻に一定のルールが出来てきたようです。でも異母兄妹の婚姻は認められていたが、同母兄妹はダメとか、何だかややこしいことになっています。禁止とは言え、実際には、この後の時代でも同じような事例はたくさんあったそうです。
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【20代:安康天皇】
~血塗られた運命を背負った天皇~
『木梨軽皇子』の失脚(自害)によって、後順位だった『安康天皇』が即位しました。
この『木梨軽皇子』を島流しに追い詰め、その後死へ追いやったのが、『安康天皇』と言われています。この時から既に、血塗られた運命をたどっていたのかもしれません・・・。
即位してしばらくした頃。天皇は、弟『雄略天皇』の結婚相手を探すために奔走します。ところが、どの皇女たちも『雄略天皇』の荒々しい気性を知っていて、怖くて誰も縁談を受けられませんでした。
ある日、『根使主』という使者を立て、『大草香皇子』という近い関係にあった皇子のもとへ遣わせます。
そして『大草香皇子』の妹『幡梭皇女』を弟の妻にしたいと申し込みました。(簡単に言えば、お互いの弟と妹を結婚させたいということです。)
『大草香皇子』は病弱で、一族の行く末を案じていましたから、妹を雄略天皇の妻にすることを承諾します。そして約束の証として、家宝の『珠蔓』を献上することにしました。
こうして『根使主』は無事に縁談をまとめ、献上品の『珠蔓』を携えて、あとは意気揚々と安康天皇に慶事の報告!となるはずだったのですが・・・結果は違いました。
なんと、珠蔓のあまりの美しさに目がくらみ、自分のものにしてしまいました!それどころか、天皇に対して「大草加皇子は、天皇とは同族といえども、大切な妹を嫁に出せるはずがない!と言っておりました」と嘘の報告までしてしまいます。
この嘘を信じた安康天皇は、怒って、大草香皇子の家を取り囲んで殺してしまいます。大草香皇子の家人たちは悲しみ、皇子の人柄を慕っていましたから、多くの者が後を追って命を絶ちました。
また、その様子を見ていた天皇側の兵士も、みな涙しました。
『安康天皇』は大草加皇子の妻『中蒂姫命』を自分のものにしてしまいました。そして妹『幡梭皇女』を弟『雄略天皇』の妻にしてしまいました。
部下に騙されたとは言え、誤って殺してしまった皇子の妻と妹を奪う形となります。この一族の恨みはやがて自分たちに返ってくることになるのです。
『安康天皇』は迎え入れた妻『中蒂姫命』を、弟の『雄略天皇』も『幡梭皇女』を、とても大切にしました。(最終的には)それぞれ『皇后(正室、第一夫人)』にしてしまうほどの熱の入れ様です。
ところで、『中蒂姫命』には、前夫『大草香皇子』との間に『眉輪王』という幼子がいました。連れ子でしたが『なかし姫』の説得もあり、宮中で一緒に暮らすことになります。
そんなある日、昼から酒を飲んで、ほろ酔いだった『安康天皇』は、『なかし姫』に「私が本当の父である大草香皇子を殺してしまったことを、いつか『眉輪王』が知ることになったらと考えると怖いのだ・・・」と打ち明けます。
ところが、遊んでいた『眉輪王』は偶然にも、その会話を聞いてしまいます。幼いながらに一族の悲しい運命を知った『眉輪王』は、そのまま剣を持ち、『安康天皇』の首をはねてしまいました。そしてそのまま大臣の邸宅に逃げ込みました。
こうして、『安康天皇』の事績は、謀で始まり、一族の恨みで終わるという、皮肉な運命をたどりました。
・この時『眉輪王』若干7歳という記述もありますが、実年齢はもう少し上であったと思います。
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【21代:雄略天皇】
”暴君”・・・と言ってしまって良いと思います。皇位継承権を持った政敵を次々と殺めて、即位します。
例えば、『眉輪王』を討ったのも雄略天皇です。この時、若年の『眉輪王』は「天皇の位が欲しいのではない、一族の、父の仇を討ったのだ!」と正論をぶつけますが、雄略天皇は結局、武力で滅亡させてしまいます。
またこの一件にかこつけて、『眉輪王』討伐に加担しない兄たちも次々と粛清していきます。
さらに、皇位継承順位の高かった『押磐皇子』を猪狩りに行こうと誘い出し、皇子に向け矢を放ちます。矢を防ぐために身を挺して皇子を守った臣下の『佐伯部』ともども射殺して山中の穴に埋めてしまうという極悪非道ぶりでした。
・臣下や配下に対しても、些細なことで怒ったり、試したり、疑ったり、時には難癖をつけて、簡単に人を殺めているイメージなんです。
たびたび「皇后」や「臣下」に諭され、いさめられ、おだてられて、振りかざした剣を収めるシーンが多く描かれています。
日本書記にはこんな一説があります。『天皇、以心爲師、誤殺人衆、天下誹謗言「太悪天皇也」』
→「(雄略)天皇」は思い込みが激しく、他人を見下すため、誤って人々を殺してしまうことが多い。世間では「最悪の天皇」と言って蔑んでいます。
・雄略天皇の縁談を断った皇女たちは「朝いた者は夕方にはおらず、夕方いた者は朝にはいない(つまり殺されてしまうという意味)」だから、雄略天皇へは嫁げないと言ったそうです。そりゃそうですよね、私だって無理ですよ笑
・モテなかった分、嫁に来てくれた『幡梭皇女』への愛情は強く皇后として取り立てます。暴君として恐れられた雄略天皇ですが、皇后には頭が上がらず、よく諌められる描写が出てきます。
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[神話] 暴君をも黙らせる神『一言主』
『雄略天皇』が狩りのために『葛城山』を訪れた時のことです。山で謎の一団と遭遇した天皇は、「この国は私が治めている国だぞ!」と詰め寄ります。そして互いに名を名乗り、相手が『一言主大神』だと知り、無礼を詫びました。一言主は“手を打って”姿を消しました。
・一言主は奈良県御所市の『葛城山』に棲む神です。高鴨神(加茂氏)の始祖とも言われています。
・一言主は名前を聞かれた際に「悪事と雖も一言。 善事と雖も一言。 言葉を離つ(放つ)神、葛城の一言主大神ぞ!」と名乗りをあげたそうです。
なんか、ヒーロー登場シーンのキメ台詞みたいで格好良くないですか?(ひと~つ、人の世の・・・みたいな笑)
荒々しい気性の天皇が名前を聞いただけで震えあがるほどの神、『一言主』ってスゴイ!
・埼玉県行田市にある、『稲荷山古墳』から出土した有名な鉄剣『獲加多支鹵大王』が雄略天皇だと言われています。※一言主との名乗り合いで、自らを『ワカタケルの皇子』と紹介しています。
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【22代:清寧天皇】
・雄略天皇の子
・特に面白いエピソードもないのですが・・・強いて言えば『アルビノ』ということですかね。へぇー、天皇家でもアルビノいるんだぁ!て素直に関心しましたし。
ちなみに『アルビノ』とは、先天性の色素異常で全身(もしくは身体の一部)が“真っ白”になる現象です。
人間以外でも白い虎とか、白いライオンとか、白い熊とかいますよね。あっ、白熊はアルビノじゃないか笑 まぁそれは置いといて、神話の時代から「白い生き物」例えば“白い鹿”などは「神の遣い」として扱われました。
清寧天皇も頭髪などが生まれつき白く、生前の名は『白髪皇子(シラカミのみこ)』という名前でした。先代の雄略天皇も、霊威を感じて、皇太子(次期天皇)につけたと言われています。
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【23代:顕宗天皇】
【24代:仁賢天皇】
24代『仁賢天皇』と23代『顕宗天皇』は『同母兄弟』です。つまり弟が先に即位し、兄が後から即位します。
この兄弟の父は、先々代の『雄略天皇』の政敵粛清によって殺された『押磐皇子』です。
臣下たちは雄略天皇の更なる迫害を恐れ、2人の兄弟を遠方の播磨(兵庫県明石付近)に名を変えて避難させていました。
雄略天皇の死後、後継者のいなかった清寧天皇は困り果てていました。
そんなある日、皇位継承権を持つ2人の兄弟が身を潜めて生きていたと知り、大喜びして迎えの使者を出しました。
その後『清寧天皇』が崩御し、帝位につくことになりました。
ここで允恭・安康・雄略・清寧の血筋(皇位継承権)は途絶えます。
『安康天皇』、『雄略天皇』にかけられた“呪い”が実を結んだ瞬間だったのかも知れません。
・『仁賢天皇』は朝鮮から技術を輸入したり、国内統治を滞りなく行い、良天候も幸いして、国中が豊かで平安な時代を築きました。
普通は権力者に対して、民から愚痴がこぼれるものですよね。ところが、仁賢天皇の世は、民から「国中が平和で、稲、麦、蚕が良く採れ、役人は役人に相応しい仕事を、農民は農民の仕事を、安らかに行なっている。これもすべて天皇の仁愛のおかげだよ・・・」と言っているんです。
こんなに愛される指導者って、現代でも稀ですよね。
五穀豊穣は仁賢天皇の代名詞となっています。
・兄弟は当初、皇位を譲りあっていたそうです。もう、“どーぞ、どーぞ”の状態です。
・即位後、亡き父の遺骨を探しあてるのですが、『押磐皇子』と忠臣『佐伯部』の遺骨の判別が困難だったので、同じ陵墓を2つ造って弔いました。
これは現在の滋賀県東近江市にある『古保志塚(円墳2基)』と伝えられています。
・また「父の仇である『雄略天皇』の陵墓を壊してやろう!」と言ったのを兄の『仁賢天皇』が諌めたという記述が残っています。
・長い間、身分を隠して、下流社会で苦労してきた兄弟だからこそ、帝位についた後は、人民に寄り添う政治を行ったと言われています。
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【25代:武烈天皇】
・この天皇も多くの謎を残した天皇です。神話では『暴虐非道』な暴君として描かれています。
日本書紀に書かれた数々の『拷問、殺戮、乱痴気ぶり』は目を覆うばかりです。私は気分が悪くなってご飯が食べれなくなってしまうので、ここには書きません。キッパリ!
気になる方はグーグル先生に聞くか、ウィキペディアでも見てください Σ(・ω・ノ)ノ マルナゲ!?
とにかく、その評価として『頻造諸悪、不修一善。凡諸酷刑、無不親覽。国內居人、咸皆震怖』→『諸悪の限りを尽くし、良い行為は一切しない。人々を極刑に処して、楽しんで観ていた。国民はその行為に恐怖した』と書かれています。
この人物を、”どう捉えるか” は本当に難しいんです。
まず、悪く書かれてしまっている点について、まったくの『冤罪:作り話』であるとする説と、”いやいや実際に行われていたんでしょう”という説に真っ二つに分かれるんです!
冤罪とする大きな根拠として、こんな悪事は『日本書紀』にしか書かれていないんです。『古事記』には8年間皇位に就いたこと、後継者(子)がないまま亡くなり、陵墓が片岡という場所に造られたことという、わずかな記述だけなんです。ほんとこれだけ!なので、架空の天皇ではないかとも言われてしまう始末なんです。
これは後世の権力者の手によって無理やり『極悪人』に仕立てられたという説もあります。
実際に、この武烈天皇の後は、血筋が一気に『応神天皇』系に移りますので、「武烈天皇は悪い天皇で、血筋が絶えて当然なんだ、後を継いだ応神系列こそ天皇に相応しいんだ!」という世論を意識した創作なのかもしれないのです。
それから、こう言った残虐な行為が実際に行われていたとした場合でも、その理由を巡って論争が起きています。
まず、日本書紀の武烈天皇記前半では「武烈天皇は法令に精通し、朝から晩まで熱心に職務に励み、厳格厳密な裁判を行った。どんな冤罪も見抜く力があった。」と書かれています。
つまり、「疑わしき人は、キチンと裁判にかけたうえで、法律に基づいて刑を行った。そのうえ無実の罪を見抜いて冤罪を防いだ」というのです。決してわがまま勝手に人々を虐殺したわけではない・・・と。
しかし武烈天皇が行った拷問虐殺が、犯罪を犯した罪人に対して行われた刑罰だったとも書かれていないんでよね、これが。
そして解せないのが、その拷問虐殺を見て、「楽しんだ」とか「笑った」という記述がみられることなんです。まるでサイコパスですよ。
と、いうことで”史上最悪の天皇”と言われる武烈天皇の本当の姿は・・・
①本物のサイコパスで、好んで人々を虐殺した史上最悪の天皇。
②残虐な行為はしたが、キチンとした裁判に基づいた刑の執行だった。
③本当はこんな行為はなかったが、後世の権力者によって極悪人に仕立て上げられてしまった。
④そもそも存在しない、架空の天皇だった。
の4パターンのうちのどれかということになるんですよね。
ところで、暴君とか、最悪の天皇とかってフレーズ・・・聞き覚えありますよね。そう、21代『雄略天皇』とかぶりますよね。じつは、この2人は同一人物で、後世の人の手で『雄略天皇』『武烈天皇』に分けられたのではないかとも言われています。
・ところで、この時代にも、”合コン” に似たイベントがありました。
それが『歌場』です。年頃の男女が集まって、意中の相手に歌を詠むというイベントです。互いに歌を掛け合い、返事も歌で返します。当然 ”告白失敗” なんてこともあるんですよね。
手法こそ違いますが、今も昔も出逢いを求める男女の気持ちは一緒なんですね♪ そして、武烈天皇もこんな歌場に参加していました。で、『影姫』という女性に猛アタックして玉砕しています笑
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【26代:継体天皇】
・武烈天皇が後継者を決めずに崩御したため、次の天皇を決めなければならないのですが、皇位継承者がなく、臣下たちも困っていました。
そこで遠縁の皇子たちに即位を働き掛けましたが、逃げられたりと散々でした。
その後ようやく5世代も離れた15代『応神天皇』系の『継体天皇』にたどり着きます。
・特に私の興味を引く事績は見当たりませんでしたが、継体天皇の時代をひとことで言うと、、、
朝鮮と九州地方の豪族たちとの争いに苦心した時代ではないでしょうか。
まず、朝鮮内では『新羅』や『百済』、『加羅』などのいくつかの小国が互いに争っていました。
百済は日本にやや属する形の同盟国(※今の日本とアメリカみたいに力関係が平等ではない)です。
新羅とは敵対関係にありました。日本も決して一枚岩ではなく、地方では豪族たちが好き勝手なことをしていました。
その中でも九州勢が新羅と組んで(敵の敵は味方理論)天皇に逆らうなど、それぞれに入り乱れての争いをしていました。
・継体天皇は27代『安閑天皇』・28代『宣化天皇』・29代『欽明天皇』の父でもあります。
【27代:安閑天皇】
・継体天皇の長男。高齢で即位。在位わずか4年で崩御。
【28代:宣化天皇】
・継体天皇の子で、27代安閑天皇の同母弟。こちらも高齢で即位し、在位3年と短命天皇でした。宣化天皇が即位すると同時に『蘇我稲目』が『大臣』に就任します。大臣は天皇に変わって、政治の実務を取り仕切る役職です。
ここから『蘇我稲目』→『蘇我馬子』→『蘇我蝦夷』→『蘇我入鹿』という有名な親子4代の力が最高潮に達して、日本と言う国を牛耳っていく時代が始まります!
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【29代:欽明天皇】
27代安閑天皇・28代宣化天皇とは異母兄弟です。
[こぼれ話] ~仏教の公伝~
『欽明天皇』の世は、政治・宗教が大きく変わろうとしていた時代です。
この時代の政治と宗教の関係について簡単に解説しますね。
みなさんも古代人になったつもりで、イメージしてください笑
政権が樹立してしばらく経ったとはいえ、決して安泰というわけではありません。
周りには ”力をもった豪族” がウジャウジャいて、どいつもこいつも虎視眈々と覇権を狙っています。
油断も隙もあったもんじゃないですよね。
そんな状況で、この ”日本” をどうやって治めるか? 頭を抱えますよね。
武力で・・・でしょうか?
でも武力闘争も楽じゃありません。戦うためには費用も掛かるし、西も東も相手にしなきゃならないし、斬られれば痛いし・・・
そこで頼りにしたのが「宗教」だったというわけですね。
「神様は偉いんだぞ!みんな崇めなさい!」ってな具合に、無秩序な世の中に、”絶対的なシンボル(象徴)” を立てることで、人々を従わせようと考えました。
じゃあ、神様って誰!?
「はいはいっ!! 私の祖先が ”神様” です!」ってのが天皇家の立場ですよね。
これが、そのまま国を治める力や方法、つまり『政治』ってことになります。
蛇足ですが、昔『政治』のことを『政事=まつりごと』なんて呼んでいました。
”まつり” は ”祀り・祭り” であり、神にまつりを奉納することが『政治』そのものだったんですね。
豊作を祈願したり、雨乞いをしたり、呪いをかけたりね。
日本という国を創ったのも、この世にある万物を作ったのも日本古来の神様ですよ!っていうのが『神道』です。
「自分たち天皇家は、”正統な神様の子孫” なので従ってね!」という政治の下で、国家統治に重要な役割を担っていた人たちもいました。それが、代々、神事を”取り仕切っていた”『物部氏や中臣氏』などの豪族でした。
一方で、中国や朝鮮などの ”諸外国との強い繋がり” を武器に、「最近メキメキ力をつけてきたよね!」っていう『蘇我氏』などの豪族も現れました。
蘇我氏は大陸との交易を通して仕入れた文化、特に『仏教』という新しい宗教に大きな価値観を見出します。そして「これからは仏教の時代ですよ! 中国も、朝鮮も『やっぱ仏教だよね♪』って言ってますよ! このままだと日本だけ遅れちゃいますよ!」と言って政権中枢に取り入ります。それほど大陸との繋がりをもった蘇我氏の力は強大で、天皇家も諸豪族も、無視できないほどの存在でした。
こうして『廃仏派』と『崇仏派』の対立が表面化するのが、この欽明天皇の時代でした。
欽明天皇は物部氏の強い説得を受け、仏教に傾倒することはありませんでしたが、その後、天皇家や諸豪族を巻き込んだ国家的な大闘争に発展していくことになります。
・仏教公伝(538)
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【30代:敏達天皇】
・欽明天皇の子、后は33代推古天皇、孫が34代舒明天皇
『敏達天皇』は、『廃仏派』の立場に立っていました。そのため物部守屋や中臣氏が勢力を誇っていました。蘇我氏が個人として崇拝していた仏教寺院や仏像を焼き払い、『仏教禁止令』を布きます。
※蘇我馬子が個人的に仏教寺院を建てたのと同時期に疫病が流行したためと言われています。
【31代:用明天皇】
・『厩戸皇子:聖徳太子』の父
・在位わずか2年で崩御
『仏教』は、良いことをすれば御利益が、悪いことをすれば災いが、という様に『因果応報』という考えが根底にあります。これは日本古来の『神道』にはない概念であり、仏教と比較した際の最大の弱点でもありました。
つまり、「神様は偉いよ!だから皆もついて来て!」というのが神道、「良いことすれば御利益がある、死んでもきっと生まれ変われるよ!」というのが仏教です(ざっくりでスミマセン・・・)
『用明天皇』は自分の『終活(臨終にむけた活動)』に際して、“救い” を求め、仏教に『帰依(特定の宗教にすがること)』したいと強く望みましたが、物部氏などに反対され、結局叶いませんでした。
こんなこともあって、以後、仏教に対する人々の意識が変わっていくキッカケとなった事件でした。
【32代:崇峻天皇】
・『廃仏派』と『崇仏派』の争いが決着する『丁末の乱』
神道派の『物部氏』と仏教派の『蘇我氏』が、大規模な武力衝突を起し、物部氏を滅亡させるという事件が起こります。(587)
[神話] 聖徳太子、仏教の加護を受ける
『蘇我馬子』が皇族や諸豪族を引き連れて、『物部守屋』のもとへ攻め込みます。その皇族の中には『厩戸皇子:聖徳太子』や『泊瀬部皇子:32代 崇峻天皇』の姿もありました。物部守屋は果敢に戦い、自ら先頭に立って矢を射続けます。あまりの勇猛さに、蘇我勢は一旦退却を余儀なくされます。
そこで『厩戸皇子(聖徳太子)』は仏教神の加護を得るべく、木を伐り、四天王像を作って「私が勝利すれば、仏殿を造り、教えを広めましょう!」と言い、勝利を祈願します。そうして放った矢が見事に物部守屋に命中し、一気に形勢は逆転、物部氏は滅亡することになります。
その後、厩戸皇子は約束通り、摂津国に『四天王寺』を建立し、仏教を広めていったそうです。
・蘇我馬子によって暗殺される。
馬子は『崇峻天皇(初瀬部皇子)』を推して即位させましたが、実権は馬子が握っていて、崇峻天皇はこれを不満に感じていました。やがて崇峻天皇VS蘇我馬子という敵対関係が顕著化し、天皇暗殺という後にも先にもない事件が発生します。(592)
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≪飛鳥時代~≫
【33代:推古天皇】(古事記はここまで)
・蘇我馬子に推され即位。29代欽明天皇の子、30代敏達天皇の后。
・初の女性天皇
・厩戸皇子=『聖徳太子』を摂政とする。
・遣隋使の派遣(600~ ※小野妹子が有名)
・『冠位十二階』(603)『憲法十七条』(604)
・『法隆寺』創建(607)
[こぼれ話] ~蘇我氏の専横~
聖徳太子が死去すると、もう蘇我氏を抑えられる者がいなくなります。
馬子から蝦夷に代替わりすると。その勢いは天皇も凌ぐほどに膨れ上がりました。
権力を手にすると暴政になるのが世の常ですよね。
次代『舒明天皇』や35代『皇極天皇』の時代になると、蘇我一族の陵墓を作るために勝手に天下の人民を動員したり、天皇の許可も得ずに『入鹿』を『大臣』に任命するなど、暴走機関車のようになっていきます。
【34代:舒明天皇】
・推古天皇の後、蘇我蝦夷に推され、後継者争いの末、即位。
・温泉好きの天皇という可愛らしいエピソードも。
・皇極天皇(斉明天皇)を后とした。
・遣隋使の派遣(630年~ 犬上御田鍬が有名)
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【35代:皇極天皇】
・舒明天皇の后。蘇我入鹿が政権実務を担う。
・この頃、「干ばつ」があり蘇我氏が祈祷したが、翌日わずかに降っただけですぐやんでしまった。
ところが、皇極天皇が祈祷すると、たちまち雨雲が立ち昇って5日間も降り続いたという逸話が残っています。
[こぼれ話] ~宮中クーデターと蘇我氏の滅亡~
・『蘇我蝦夷』は蘇我氏の血を引く『古人大兄皇子』を皇位に付けようと企てました。
一方で『入鹿』は有力な皇位継承権を持つ、聖徳太子の子『山背大兄王』を襲い滅亡させてしまいます。
蘇我氏の暴政に堪えかねて『中大兄皇子』、『中臣鎌足』らは共謀し、宮中で『蘇我入鹿』を斬殺してしまいます。
翌日には父『蝦夷』が追い詰められ自害し、蘇我氏が滅亡します。(乙巳の変:645) これ以降、中大兄皇子を中心にした国政改革『大化の改新』が行われていきます。
・初の譲位(生きている内に天皇を退く)を行なう。
【36代:孝徳天皇】
・皇極天皇の弟。中大兄皇子らと皇位を譲り合ったが、最終的に孝徳天皇が即位しました。
・中大兄皇子や中臣鎌足らを中心として戸籍や税制を見直したり、天皇や豪族も葬儀や陵墓を質素なものにする決まりや、役人に対する戒め、その他 ”生活全般” の様々なルールを作っていきました。
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【37代:斉明天皇】
・35代、皇極天皇が再び即位して斉明となる(重祚)
・天智(中大兄皇子)/天武(大海人皇子)の母
・中大兄皇子が政務を担当。
・この天皇は工事好きで知られています。
→「狂心の渠 」
※華やかな都を目指し、溝の工事に3万人、宮の一角の石垣を築くのに7万人を動員し、石を運ぶのに船200隻を並べたとする記述があります。この無謀な工事に人民は反発し『狂心』と揶揄しました。
・このような大規模工事(贅沢)は、今まで『蘇我氏』によって抑え込まれていた『天皇家』の権力が、蘇我氏の滅亡によって盛り返してきたためとも言われています。
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【38代:天智天皇】
・中大兄皇子のことであり『大化の改新』を起す(645)
・律令体制の確立に尽力
・「百済」支援で「唐・新羅連合」に大敗。
→「白村江の戦い」(663)
[こぼれ話] 『防人の歌』悲しい歴史
これまで朝鮮との関係で優位に立っていた日本が、白村江の戦いで大敗したことは、それはそれは大きな衝撃でした。国内は混乱し、中央政権内はパニックに陥ります。
それもそのはず、今度は唐や新羅が日本に攻め込んでくるかもしれないんですから! そこで、九州沿岸や対馬などに防衛のための城砦『水城』や兵士『防人』を配置するなどの大掛かりな措置を取りました。
歴史の授業で聞いたことぐらいはあると思いますが、この『防人』には人々の多大な犠牲のうえに成り立っていました。主に静岡や関東の国の住民が、遠く離れた九州や対馬まで駆り出されました。途方もなく遠い場所です。
暑い日も、寒風吹きすさぶ冬の日も、遥か海原を眺めて防衛にあたる海岸線の任務は過酷を極めました。税の免除もないまま、旅費や任務中の食糧の調達まで、個人がすべて負担しなければなりませんでした。それよりも防人たちを追い込んだのは、故郷に残してきた親や妻、子供たちへの思いでした。
こんな極限の中で、防人たちの心の叫びとも言える歌が『万葉集』には100首以上も収められています。
「わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず」
私の妻はとても恋しがっているんでしょうね。(私も)飲もうとする水に(妻の)影が浮かんで見えて、一日たりとも忘れられない。
「唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして」衣の裾にしがみついて泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまった、母もいないのに。
(645)大化の改新のキッカケとなる宮中クーデター「乙巳の変」以降、(叔父)孝徳・(母)斉明と2代の天皇のもとで、大臣や皇太子として長い間、陰で実権を掌握しつつ、何故か皇位につきませんでした。668年にようやく即位。変から実に23年も経っています。
「秋の田の 刈穂の庵の 苫をあらみ わが衣手は露に濡れつゞ」
(あきのたの かりほのいほの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ)秋の田の側につくった仮小屋に泊まってみると、屋根をふいた苫の目があらいので、その隙間から忍びこむ冷たい夜露が、私の着物の袖をすっかりと濡らしてしまっているなぁ。
(百人一首の1番札)天智天皇が詠んだ有名な歌です。
優美な歌ですね・・・。朝廷の失策で駆り出される『防人』の歌が、朝廷の人に届くことはなかったのでしょうね。
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【39代:弘文天皇】
・大友皇子のこと。こっちの方が有名?
父の『天智天皇』にとても可愛がられ、次期天皇(皇太子)で叔父の『大海人皇子:天武天皇』との間で確執が生まれます。
実際に即位したかは不明です。
理由として「日本書紀」には即位したという記載がないからなんです。
・天智天皇の没後、『大海人皇子(天武天皇)』に敗れ亡くなる。(672)
【40代:天武天皇】
・天智天皇の弟で、名前を大海人皇子といった。
・『壬申の乱』を起して、大友皇子(弘文天皇)を敗る(672)。
・『飛鳥京』遷都
・『日本書紀』『古事記』の編纂を命じる。
【41代:持統天皇】
・天智天皇の娘であり、天武天皇の后でもある。
・『藤原京』遷都(694)
・国名を『倭』から『日本』にした天皇と言われています。
→藤原京跡
「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
(はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかぐやま)もう春は過ぎ去り、いつのまにか夏が来てしまったようですね。香具山には、あんなにたくさんのまっ白な着物が干されているのですから。
こちらは(百人一首の2番札)、持統天皇が詠んだ有名な歌です。
凛のホッと♡一息コラム 『天皇の名前』
天皇の名前は『おくり名』ですよね。
これは、崩御や、譲位によって天皇ではなくなった段階で、後世の人が『贈る名前』のことです。なので在位中に自分が「○○天皇」と呼ばれることはありませんし、名乗ることもありません。
さて、この『おくり名』ですが、どんな名前にしようかと思案する際、何を意識していると思いますか? みなさんならどうでしょう? なんとなく“その人っぽい”名前を考えるんじゃないでしょうか。
つまり、『おくり名』は生前の天皇の功績や人柄によって、人々が受けるイメージを反映しているといっても過言ではありません。
例えば!
『仁』という字は「思いやり」や「慈しみ」という意味があります。この字がついている天皇はなんとなく人に優しいのかなぁ~とイメージしますよね。
では実際に見てみましょう。
11代「垂仁天皇」・・・苦しむ人を見て、『殉葬』を禁止しました
16代「仁徳天皇」・・・人々の暮らしを憂いて税の減免措置。『聖帝』と呼ばれました。
24代「仁賢天皇」・・・民から愛された五穀豊穣の天皇。
・・・ね、『仁』の付く天皇は優しいでしょ!
他にも!
10代『崇神天皇』なんて、そのままズバリ「祟り神=たたりがみ」ですよ!なんて名前つけるんだ! オオトモヌシに祟られたから?それとも、それが元で神を崇めたから?
案外「変な名前つけたら祟ってやるからな!」といって亡くなったので、臣下が「じゃあ祟り神でいいんじゃね?」となったのか!?
いえいえ、この時代に起こった数々の災いを「神の祟りだ!」と叫び、心を病んでしまったから・・・らしいですよ。
13代『成務天皇』も務めや政治に大きく貢献して成り立たせたことを称えた名前です。国や県を整備し、律令国家の礎を築きましたよね。
26代『継体天皇』は世継ぎがなく、天皇『体制』をどうにか『継続』させるために遠縁の皇子を引っ張ってきた背景があります。
その他、『武』や『雄』などは戦いや力などが特徴だと分かります。
いかがだったでしょうか?
「名は体を表す」と言いますが、是非そんな視点で「歴代天皇の名前」を眺めてみてください。意外と面白い発見があるかも知れませんよ。
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凛のホッと♡一息コラム
『伊勢へ七度、熊野へ三度♪』
『伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さまには月参り♪』
陽気なリズムで始まりました、今回のコラム!
こんにちは、凛です。
冒頭に出てきた『伊勢へ七度、熊野へ三度~』という歌は「十返舎一九」作の『東海道中膝栗毛』という「滑稽本(小説のことですね)」に出てくる一節です。
当時、伊勢参りに行くということは、今でいう “海外旅行” に行くみたいな “贅沢なイベント” でした。当然、誰でも行けるわけではありません。なので、「1生のうちに伊勢には7回くらい、熊野には3回くらいは行きたいものだなぁ」という人々の憧れが表現されていたんですね。
現代では、信仰心の深いことを意味する格言としても使われています。
さて、そんな江戸時代の人々の憧れの場所だった『伊勢神宮』についてのお話を、今回は書かせていただきますね。
まず、伊勢神宮は親しみを込めて「お伊勢さん」なんて呼ばれていますが、神社としては別格中の別格で、色々な参拝ルールがあるんですよね。
例えば!
・伊勢神宮は大きく『内宮』と『外宮』に分かれていて、参拝の順番としては『外宮』を詣でてから『内宮』を詣でます。逆順参拝や内外どちらかを参拝する(片参り)はタブーとされています。
また内宮、外宮ともに『ご正宮』を中心に『別宮』や『摂社』『末社』と枝分かれしていきます。その数なんと125社!これをすべて合わせて『伊勢神宮』と呼ばれるんです。
神話の中でも出てくる『五十鈴川』、内宮参りの前に心を清めに行ってください。また『滝祭神(たきまつりのかみ)』は『アマテラス』に取り次いでくれる神様なので、こちらも内宮参りの前に参拝しましょう。
・大昔、伊勢神宮は天皇だけが参拝できる特別な場所でした。その名残りもあって、今でも賽銭を投げて私的な “お願いごと” をすることはダメなんですよね。これは『私幣禁断』といって、基本的には日頃の感謝をする場所なんですよ。あっ、もちろん賽銭箱なんてものもありません。
どうしても個人的なお願いがあるかたは、別宮の方で、こっそりと・・・。
・参道は神様が通る道なので、“真ん中を歩かない”というのは、どこの神社でもおなじですよね。伊勢神宮は真ん中禁止はもちろんとして、外宮では左側、内宮では右側を歩きます。
・・・と、まぁ他にもルールや見どころも多い伊勢神宮ですが、ここからは、神話をもとにお話ししますね。
まず、”伊勢” と言えば、神話では『アマテラス』より先に鎮座した神がいませんでしたっけ? そうです『猿田彦大神』ですよね。天孫降臨の時に、天上界の神々の道案内をして、その後「伊勢の五十鈴川の上流に向かいます」といって去った神ですよね。
(物語では海で溺れて泡になりましたが)
この猿田彦の子孫の大田命が、『アマテラス』を祀る地として『ヤマト姫』に五十鈴川の上流の地を献上したと古文書もあります。
伊勢やアマテラスと縁が深い神ですが、この「猿田彦」をお祀りする『猿田彦神社』が伊勢神宮の内宮近くに鎮座しています。
それから、『出雲大社』は60~70年に1度、ご神体を別の社殿へ移す『遷宮』が行なわれていましたよね。
ここ『伊勢神宮』でも『式年遷宮』が20年ごとに行われています。これは神話にも出てきた40代『天武天皇』(=日本書記・古事記を作らせた天皇)が『20年に1度やるぞ!』と決めて以来、第1回目の『持統天皇』から、2013年の『第62回・式年遷宮』まで1300年以上もの間、脈々と受け継がれています。
やっぱり、これって凄いことですよね。