日本神話を簡単にまとめると?④


こんにちは、凛です。

前回までは、『二ニギの天孫降臨てんそんこうりん』から『神武天皇じんむてんのうの国内統治』までを紹介しました。

ここから話は、”神々の時代” から、”天皇統治” の時代へと移っていきます。
そして記述される内容も、「神話(物語)」の世界から、歴代天皇の功績や人生模様を記録する「歴史書」へと様変わりしていきます。

と、言うことで『日本神話』に書かれている歴代天皇たちの中で、私が「これは!」というものを、ピックアップして、プロフィールやエピソードを紹介していきたいと思います。それでは早速いってみましょー(*’▽’)

『日本神話 ショート・ショート』

【はじめに】

・最初にお伝えしたいのが、歴代天皇の記載に関しての『古事記こじき』と『日本書記にほんしょき』の違いです。『古事記こじき』には33代『推古天皇すいこてんのう』までが、『日本書紀にほんしょき』では41代『持統天皇じとうてんのう』までが書かれています。

・以前の記事で、天皇の名前は『おくり名』といって、天皇の死後に付けられると紹介しました。しかし、このコーナーでは理解しやすいように『おくり名』ベースで書かせていただきます。

・『日本神話』で物語として書かれているものを[神話]として紹介します。
・時代の移り変わりを理解していただくために、『(数字)=西暦』を記載しています。

≪~神話時代(弥生時代後期)~≫

【初代:神武天皇じんむてんのう
・初代天皇である『神武天皇じんむてんのう』を描いた『神武東征じんむとうせい』は、かなり壮大なストーリーとして描かれています。ですが『神武天皇』が ”実在” していたかどうかは、判明していません。

・『神武天皇じんむてんのう』が亡くなったとされる年齢も、『古事記こじき』では127歳、『日本にほんしょ』では137歳で崩御ほうぎょしたことになっています。これが ”作り話” 説になっている大きな理由のひとつです。確かに137歳なんて現代でも考えられないですよね。

しかし、この時代、1年に2歳ずつ(春と秋に)年齢が上がっていったという説もあり、判然としません。

[こぼれ話]
初代天皇である『神武天皇じんむてんのう』が『橿原かしはら神宮じんぐう』で即位したのが、紀元前660年の「2月11日」と言われています。これ何の日か知っていますか? そう、この初代天皇即位を記念して、『建国記念日』と定めているんですよ!

【2~9代:『欠史八代けっしはちだい』】

・2代『綏靖天皇すいぜいてんのう』から、9代『開化天皇かいかてんのう』までは、名前はあるんだけど、詳しい事績じせきが書かれていないなど、つじつまの合わないことが多い天皇です。そのため、「自分たちには”長い長い歴史” があるんだぞ!」、と示すために付け加えられた架空の天皇ではないかと言われています。この8世代の天皇は『欠史八代けっしはちだい』と呼ばれています。

・もちろんのことですが、『神武天皇じんむてんのう』を含め、その後の『欠史八代けっしはちだい』が”存在しなかった”という証拠もありません。いずれにしてもモデルとなる人物がいたことは間違いないようです。
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【10代:崇神天皇すじんてんのう
実在を確認できる最古の天皇とされています。
・中国の書物で、日本を紹介した歴史書『魏志倭人伝ぎしわじんでん』に書かれていた『卑弥呼ひみこ』と同じ時代に存在した天皇だと言われています。

・ちょっと怖い話ですが、王の死に際して、その陵墓りょうぼに、臣下や妻などの縁故者えんこしゃ奴隷どれい、動物などを ”生き埋め” にする『殉葬じゅんそう』という風習が世界各国で見られました。これは日本でも行われていて、この『崇神天皇すじんてんのう』の時代に初めて『人垣ひとがき=(殉葬者じゅんそうしゃ)』を陵墓に埋めたという記述があります。また「魏志倭人伝ぎしわじんでん」にも、『卑弥呼ひみこ』の死に伴って100名単位での殉葬者じゅんそうしゃがいたと書かれています。
・フォローになっていないかもしれませんが、多くの古墳こふんが調査発掘されていますが、実際に殉葬者じゅんそうしゃが出てきたものや、その形跡は、ほとんどないそうです。ひょっとしたら、物語として書かれていただけで、実際にはそんなことは行われなかったかもしれませんね(と、願いたい・・・)

[神話]
天皇家では代々『アマテラス』と、『倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ』という神を『宮内くない(天皇の宮殿)』に一緒に祀っていました。
崇神天皇すじんてんのう』の時代に色々と災いが起きました。占った結果、案の定 ”2尊の神” が互いの強い神気しんき牽制けんせいし合い ”沸騰寸前ふっとうすんぜん” でした。

そこで『崇神天皇すじんてんのう』は、2尊の神を宮内くないから出し、それぞれ別の場所でおまつりしようと考えました。『アマテラス』には、娘の『豊鍬入姫命とよすきいりひめ』をつけ、笠縫村かさぬいむらという場所でおまつりすることにしました。
一方、『倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ』は同じく崇神天皇すじんてんのうの娘『渟名城入姫ぬなきいりひめ』をつけて、まつろうとしましたが、姫は神気しんきされ、せ細り、髪が抜け落ちたりして、まともにおまつりできませんでした。

[神話] 祟り神たたりがみとなったオオモノヌシ
そうしているうちに、民の半分が死ぬほどの疫病えきびょうが大流行しました。
ある日、崇神天皇すじんてんのうの夢の中に『大物主オオモノヌシ』が現れ、「たたりを起しているのは自分(大物主)」だと告げました。そのため「大物主オオモノヌシ」が居るとされる三輪山みわやまに『大神神社おおみわじんじゃ』を建立すると疫病えきびょうは静まったといわれます。

[ちょっと整理しましょう!]
・天皇家に代々、祀ってあったのは『アマテラス』と『倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ』でした。この『倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ』はここで初めて登場する神様です。
えっ、『大国主オオクニヌシ』じゃないの?と思うかもしれません。ですが、「そう言う説もある」としか言えません。

確かに「大国主オオクニヌシ」であれば、“地上界の最高神”とそれを奪う形になった“天上界の最高神”が仲良く並べられていたら気まずくて居心地悪いだろうなぁと想像できます。
実際に日本書記には「並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安」(天皇の大殿で並んで祭られていて、神たちの勢いがおそれ多くて、一緒にいて安らげない)と書かれていますし・・・。

でも『大国主オオクニヌシ』の御魂は『出雲大社いずもおおやしろ』におまつりされているんです。これが、「おおくにぬし」と「倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ」が違う神であるとする理由です。
倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ」は「日本大国魂神やまとおおくにたまのかみ」と表記される場合もあります。

次に出てくる「オオモノヌシ」という神がさらに話をややこしくしているんですよね。
結局、疫病えきびょうを流行らせた神は『アマテラス』でも『倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ』でもなく、『大物主オオモノヌシ』だったというオチなんです。

大物主オオモノヌシ」といえば、『大国主オオクニヌシ』を助けて『葦原中国あしはらなかつくに:地上界』で共に国造りをした神でしたよね。実は『大国主オオクニヌシ』の「和魂=もうひとつの自分」だったのでは?とも言われていました。『大物主オオモノヌシ』が出てきたんだから、大国主オオクニヌシでしょ!という発想ですね、まるで“引っ掛け”です。

じゃあ、皇女こうじょの『渟名城入姫ぬなきいりひめ』が髪が抜けるほど、ネチネチとたたった『倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ』はどうなったの? と思いますよね。その後、『倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ』からのお告げにより奈良県天理市てんりしにある(現)『大和神社やまとじんじゃ』にまつられて、ようやく収まったと伝えられています。

結論として『崇神天皇すじんてんのう』の時代、『倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ』と『大物主オオモノヌシ』というまったく違う神がそれぞれたたりを起していたということになります。
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【11代:垂仁天皇すいにんてんのう
・多くの殉葬者じゅんそうしゃが苦しみ死んでいく姿をなげき、殉葬じゅんそうを禁止したと言われています。また、生き埋めの代わりに人型や馬型の『埴輪はにわ』を古墳の周りに置いたとされています。
・『伊勢神宮』の建立を命じ、娘の『倭比売命(ヤマト姫)』を初代『斎宮さいぐう』として派遣する。
・『斎宮さいぐう』とは、伊勢神宮いせじんぐうに天皇の代わりにつかわされる役職。独身の皇女こうじょから選ばれていました。(基本は、つかわした天皇が譲位じょういするまで宮につかえます)

【倭比売命(ヤマト姫)】

ヤマト姫』は『日本武尊(ヤマトタケル)』の叔母おば(父:景行天皇けいこうてんのうの妹)にあたり『ヤマトタケル』のクマソ征伐せいばつの際に女装をさせたり、関東遠征えんせいへ出掛ける際に『くさなぎのつるぎ』を持たせたりして支援します。

[神話] 『ヤマト姫』が『アマテラス』を伊勢に導く。

先代の『崇神天皇すじんてんのう』は『アマテラス』を宮殿とは別の場所でまつることにしました。
その時 まつっていたのが「豊鍬入姫命とよすきいりひめ」です。『ヤマト姫』から見ると叔母おばに当たります。

父の『垂仁天皇すいにんてんのう』の代になり、その役目は『ヤマト姫』に引き継がれます。
ヤマト姫は『アマテラス』の御杖代みつえしろ(案内役)として、より相応ふさわしい場所がないかを探し求め、全国を旅して回ります。

ヤマト姫が伊勢に辿り着くと、「この素晴らしい伊勢の地が良い!」というお告げを受けました。 このことを父『垂仁天皇すいにんてんのう』に報告すると、天皇は『アマテラス』をまつるために伊勢神宮を建立し、ヤマト姫を『斎宮さいぐう』に据えたのでした。

・『アマテラス』を “おまつりする” とは、どういうことでしょうか? 天孫降臨てんそんこうりんの際、『アマテラス』は降臨する神々に『八咫の鏡やたのかがみ』を託し、「私の魂(分身)として崇拝しなさい」と命じましたよね。つまり『アマテラス』は“魂”となり、“八咫の鏡やたのかがみ”に宿っているわけです。 豊鍬入姫命とよすきいりひめもヤマト姫も、その後の斎宮さいぐうも、この鏡を受け継いでおまつりしているんですね。
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【12代:景行天皇けいこうてんのう

・この天皇は何と言っても息子の『日本武尊(ヤマトタケル)』との絡みが最大の特徴です。と、いうより『古事記こじき』には『ヤマトタケル』しか書かれていないと言っても良いほどです。

[神話] 英雄『日本武尊ヤマトタケル偉業いぎょう
景行天皇けいこうてんのう』にはたくさんの妻と80人もの子がいました。
このうち皇后こうごうの子『ワカタラシヒコ(成務せいむ天皇)』と弟の『イオキのいりひこ』、異母兄弟の『オウス(日本武尊ヤマトタケル)』の3人は皇太子こうたいしに選ばれ、残りの77人はそれぞれの地域の長(国造・くにのみやつこ県主などあがたぬし)となりました。
この3人にも、他の77人にも入ってはいませんが、実はもう1人、『オウス』の双子の兄『オオウス』という皇子みこもいました。本来であれば『オオウス』も皇太子となるはずでした。そう、生きてさえいれば・・・。

今から少し前の話です。『景行天皇けいこうてんのう』が大変美しいと噂の姉妹を新しいきさきとして迎えることになり、双子の兄『オオウス』をつかわせて妃たちを迎えに行かせます。ところが、『オオウス』はその美しい女性たちを自分の妻にして、父(景行天皇けいこうてんのう)へは別の女性を差し向けました。
景行天皇けいこうてんのうはそのことに気付きましたが、何もせずに、ただただ悩んでいるだけでした。

『オオウス』は気まずいのか、天皇の前に顔を出さなくなりました。そこで天皇は『オウス』に兄を優しくさとして連れてくるように命じます。それからしばらくしても、兄が姿を見せないので『オウス』にまだ兄をさとしていないのかと尋ねました。ところが、『オウス』はとっくにさとしたと答えます。どういうことなのかを問い詰めると、「待ち伏せして、捕まえて、打ちのめしたあと、斬り捨てました」と言い出しました。『オウス』が、ひょうひょうと答える姿を見て、景行天皇けいこうてんのうは恐ろしくなりました。

ちょうどその頃、九州の豪族ごうぞく『クマソ』が朝廷ちょうていにまったく従わないので困っていました。そこで景行天皇けいこうてんのうは『オウス』にクマソ征伐せいばつを命じました。ほとんど身ひとつで投げ出された『オウス』は困って伊勢の『倭姫(ヤマト姫)』のもとを訪れます。『ヤマト姫』は『オウス』の叔母おばにあたる皇女こうじょで、伊勢神宮に仕える斎宮さいぐうです。『ヤマト姫』はクマソ征伐せいばつに向かう『オウス』に『女性の着物』と『懐刀(短刀のこと)』を与えました。そうして、『オウス』は九州に向かいます。

クマソの国に入ると、クマソの一族はちょうどうたげの準備をしているところでした。そこで刀をふところに忍ばせ、『ヤマト姫』に渡された女性用の着物を着て、髪をといいてうたげに紛れ込みます。(イメージ)

うたげは大いに盛り上がり、酔いも回ってきた頃、クマソの首長の兄弟が、(女装した)『オウス』の姿が気に入って隣に座らせて酒を注がせました。えんもたけなわとなってきて、兄弟の気がゆるんできたのを見計らって、『オウス』は首長の兄を引き寄せて刀で一突きにしてしまいました。弟は思わず驚き、慌てて逃げましたが、同じく一突きにしてしまいました。この時クマソの弟が息絶える前に「オウス」のことを『日本武尊(ヤマトタケル)』と呼びました。これは“大和やまと勇敢ゆうかんな男”といった意味です。以後、『オウス』は『ヤマトタケル』と呼ばれるようになりました。

こうしてクマソを平定した『ヤマトタケル』は、そのまま朝廷に反抗的だった『出雲健(出雲いずもタケル)』のもとへ向かいます。身分を隠し、友として近づいた『ヤマトタケル』は、遊びの中で自分の持っていた模造刀もぞうとうと『出雲いずもタケル』の刀を交換してチャンバラをします。刀がさやから抜けずに困っている『出雲いずもタケル』を斬り殺してしまいました。
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ヤマトタケル』は意気揚々と都に戻り、クマソと出雲いずも平定へいていを報告します。ところが、『景行天皇けいこうてんのう』は間髪かんぱつを入れず、『ヤマトタケル』に「東国12か国」の荒ぶる神々と、朝廷に従わない者たちが大勢いるので、行って平定するように命じました。この時も、『ヤマトタケル』に持たされたのは『ヒイラギのほこ』一本だけでした。

東国へ向かう途中で、『ヤマトタケル』は再び、伊勢の『ヤマト姫』のもとを訪れます。そこで『ヤマトタケル』はこんな弱音を吐きます。「西方の遠征から帰ったばかりだというのに、今度はもっと大変な東国の平定を命じるなんて、父(景行天皇けいこうてんのう)は私に死ねと言っているんだ」と。そこで『ヤマト姫』は『草薙剣くさなぎのつるぎ』と『袋』を与えました。

東国へ向け出発した『ヤマトタケル』は、『尾張おわり(愛知県あたり)』で『ミヤズ姫』と恋に落ち、東国平定が済んだら必ず迎えに来ると約束(婚約)して再び東へ向かいます。

駿河国するがのくに(静岡県あたり)』では、国造くにのみやつこ(役人の長)が、「この原っぱの中に沼があるのですが、そこにいる神が暴れて困っているのです」と泣きついてきました。『ヤマトタケル』が様子を見に野原に分け入っていくと国造が本性を現します。国造は『ヤマトタケル』を陥れようと騙していたのです。『ヤマトタケル』のいる野原に向け火を放ちます。火に囲まれた『ヤマトタケル』は逃げ場を失いますが、『ヤマト姫』から貰った袋を開けると火打石ひうちいしが入っていました。『草薙剣くさなぎのつるぎ』を使って枯草を切り払って集め、その石で火を起こし、迎え火むかえびをして、国造が放った炎を退けます。こうして難を逃れ、騙した国造を成敗しました。(イメージ)

・それ以来この地は『焼津やいず』と呼ばれるようになりました。
・また『草薙剣くさなぎのつるぎ』とは、この「草を薙ぎ払った剣」であることから、後世になって呼ばれはじめたとも言われています。

その後、失言から海の神の怒りを買い、嵐を起こされ、船が進めなくなります。しかし『弟橘姫おとたちばなひめ』が代わりに海に身を投げることで嵐が収まったり、足柄山あしがらやま(静岡と神奈川の境)で『白鹿(山の神)』に合い、鎮魂ちんこんしたりしました。『筑波国つくばのくに(茨城)』、『甲斐国かいのくに(山梨)』、『信濃国しなののくに(長野)』と順調に平定し、ようやく東国征伐とうごくせいばつもひと段落が着こうとしていました。

そこで婚約していた尾張おわりの『ミヤズ姫』のもとへ向かい結婚しました。それから『ぶきやま=現:伊吹山』にむ荒ぶる神を鎮魂ちんこんしに向かうのですが、これまでの順調な東国平定で『ヤマトタケル』には、「傲りおごり」が生まれていました。『草薙剣くさなぎのつるぎ』を『ミヤズ姫』に預けて、素手で相手すると意気込んで『息吹山いぶきやま』に向かいました。山を登り始めると大きな『白いイノシシ』と遭遇しましたが、ここでも慢心まんしんの『ヤマトタケル』はそれを “神の遣い” 程度に考え、相手にしませんでした。

しかしそれが大きな間違いでした。白い猪は息吹山いぶきやまの神そのものでした。相手を軽く見た『ヤマトタケル』は神の怒りに触れ、ひょうや幻惑など散々な目に遭ってしまいます。フラフラになりながら、ようやく山から逃げ出します。満身創痍まんしんそうい大和やまとに向け帰ろうとしますが、どんどん体力も気力も弱まっていきます。『ヤマトタケル』は自分の最後をさとってか、故郷や、妻たち、残してきた剣などの思い出を歌にしてみ、とうとう大きな白い鳥となって天に昇っていってしまいました。

故郷の大和を思って読んだ歌

やまとは 国の真秀まほろば  たたなづく 青垣あおがき  やまごもれる やまとうるわし』

【私流現代語訳】
大和やまと」は国の中で ”一番良いところ” だよ。幾重いくえにも重なった青い垣根のように、山に囲まれててさ。あー大和は本当に美しいなぁ。

こうして、『ヤマトタケル』をしのんで『白鳥御陵しらとりごりょう』と呼ばれる陵墓りょうぼを作り、魂をおまつりしたそうです。
ここで、日本神話の中で『英雄』として書かれた『日本武尊ヤマトタケル』のお話は終わりになります。

『お札になった日本武尊』

白鳥御陵しらとりごりょう』は「古事記」と「日本書紀」で、それぞれ場所が異なります。
最初に『ヤマトタケル』が亡くなったとされる『伊勢国いせのくに 能褒野のぼの(三重県 亀山市)』に『陵』を造ったんですけど、白鳥になって飛び立っちゃったんですよね。ここまでは両記とも一緒・・・。

「古事記」では、その後「河内国かわちのくに 志幾しき」 (大阪府 羽曳野はびきの市)へ降り立ったので陵を造っておまつりしました。
→『軽里大塚古墳』

「日本書紀」では、その後「大和国 ことひきはら(奈良県 御所ごせ市)」へ降り立ち『陵』を築いたら、またまた飛び立っちゃって、最後は「河内国かわちのくに ふるいちむら」 (大阪府 羽曳野はびきの市)へ降り立ち、ここも気に入らなかったのか、最後は天の登ってしまう Σ(・ω・ノ)ノ! という伝承があります。
→『琴弾原 白鳥陵』

臣下も大変です(>_<)・・・。
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【13代:成務天皇せいむてんのう
景行天皇けいこうてんのうの子であり、日本武尊ヤマトタケルの異母弟。
・『くにあがた(今でいう県と市区町村)』を制定し、不明瞭ふめいりょうだった国境などを整備しました。
・『国』には『国造くにのみたつこ』、『県』には『県主あがたぬし』を首長として派遣します。
・これらは本格的な律令りつりょう制度の足掛かりになる大事業ですが、あまり大々的に扱われていない可愛そうな天皇とも言えます。
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【14代:仲哀天皇ちゅうあいてんのう
・『ヤマトタケル』の子であり、きさきは『神功皇后じんぐうこうごう

[神話] 住吉3神のおげと朝鮮遠征ちょうせんえんせい
仲哀天皇ちゅうあいてんのう』が九州の反乱をしずめるための準備をしていたときのこと、きさき神功皇后じんぐうこうごうに神が降りました。降りてきた神は『住吉3神』で、「ここより西に国があり、そこには金銀財宝がたくさんある。お前にその国を与えよう」と言いますが、仲哀天皇ちゅうあいてんのうは「ここから西には海しかない」と、お告げを信じませんでした。すると、神は激しく怒り、すぐに天皇を呪い殺してしまいました。

恐れをなした家臣たちが、“神降かみおろしの儀式”を行うと、再び『神功皇后じんぐうこうごう』に神が降りてきます。そして、「この国は、今(皇后が)身籠みごもっている子が治めるべき国である」ことと、「西の国を手に入れる方法」を告げて消えました。皇后こうごうは神が教えた通りに軍を集め、船を並べて、西の国へ進撃します。(神功皇后じんぐうこうごうへ続く)

・西の国=「朝鮮半島」のことでした。当時朝鮮半島では多くの金や銀が産出されていました。こうして以後、国家として朝鮮へ権力を進出させていくことになります。
・この時代の朝鮮は『新羅しらぎ』『高句麗こうくり』『百済くだら』の3国が覇権はけんを巡って争っている『三国時代でした
・『住吉3神』は『イザナギ』が黄泉みよの国の『けがれ』をはらった際に「水面、水中、水底」から、『ワタツミ3神』と共に生まれた神です。
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神功皇后じんぐうこうごう
・『仲哀天皇ちゅうあいてんのう』の『皇后こうごう(正室せいしつ・第一婦人)』で15代『応神天皇おうじんてんのう』の母。仲哀天皇ちゅうあいてんのうの死後、応神天皇おうじんてんのうの即位まで、皇后として実権を振るう女傑じょけつです。後にも先にも実権をになっていた女性皇族の中で、最も繁栄した時代を築いたスーパーウーマンです。

後の世代の天皇たちが、あの時代は凄かったらしいよ!と噂し、憧れ、目標とする程の栄華を極めたとされています。

『神功皇后』イメージ

[神話] 住吉3神のお告げと朝鮮遠征②
お腹に子を抱えたまま、神のお告げに従い、朝鮮を目指す皇后こうごう軍。その船の立てる波はたちまち津波となって『新羅しらぎ』の国の半分を飲み込みました。新羅しらぎの国王は恐ろしくなり、「今後は並べた船の船体が乾くことが無いほど、奔走ほんそうして、天皇にお仕えします」と言い屈服しました。

『武者姿の神功皇后』イメージ

『朝鮮平定』の際の神功皇后

[神話] 陣痛じんつうを石で抑え戦った皇后こうごう
まだ朝鮮を攻めていたとき、『神功皇后じんぐうこうごう』は、急に産気さんけづきましたが、石を腰につけ陣痛を抑えました。そして勝利の後、筑紫国つくしのくに(福岡)まで戻り、ようやくそこで「応神天皇おうじんてんのう」を出産しました。この時、応神天皇おうじんてんのうが産まれた地を『宇美うみ』と言い、腰に付けた石は『鎮懐石ちんかいせき』と呼ぶようになりました。

宇美うみには『宇美神社うみじんじゃ』が鎮座ちんざしています。また、『鎮懐石ちんかいせき』は福岡県糸島市の『鎮懐石八幡宮ちんかいせきはちまんぐう』にまつられています。
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≪古墳時代~≫

【15代:応神天皇おうじんてんのう
・中国や朝鮮などから文化や技術を積極的に輸入して国造りを進めた天皇です。
・母『神功皇后じんぐうこうごう』に神が降り、生まれる前から、既に「天皇」となるようお告げがあったことから『胎中天皇たいちゅうてんのう』とも呼ばれました。

[こぼれ話]
仲哀天皇ちゅうあいてんのう崩御ほうぎょして、朝鮮へ進攻した『神功皇后じんぐうこうごう』。さらに産気さんけを抑えて、九州まで戻って出産って・・・。
懐妊かいにんから出産まで『十月十日とつきとおか』どころじゃないですよね。ひょっとして・・・?
そうなんです、ひょっとしたら仲哀天皇ちゅうあいてんのうの子じゃないかも!なんて説もあるんです。そこで、石を抱いて、「産気を遅らせた」なんて“にわか”には信じられない話まで持ち出して、無理やり帳尻を合わせていたんだとしたら・・・怖っ!
まぁ、あくまでひとつの仮説ですから。 私は鎮懐石ちんかいせきを信じますよ 笑

・神話では『髪長比売かみながひめ』という美しい女性をきさきにと呼び寄せたのですが、子の『仁徳天皇にんとくてんのう』が惚れてしまい、その情熱にほだされとうとううたげの席で譲るというシーンが描かれています。
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【16代:仁徳天皇にんとくてんのう
・国内最大級の『仁徳天皇陵にんとくてんのうりょう(前方後円墳ぜんぽうこうえんふん)』(大阪府堺市さかいし)が繁栄を物語っています。

[神話] 民の生活を案じた聖帝
天皇が高い山に登り、国を見てみると、民の家の釜戸かまどから煙がまったく上がっていませんでした。民が貧窮ひんきゅうしていることを察した天皇は、3年間、税も使役しえきも免除します。そのため、天皇の宮殿が雨漏りしても、修理もしないで耐えました。こうして、人々の生活が安定し、ようやく徴税ちょうぜいを再開し、人々からは『聖帝ひじりみかど』と呼ばれあがめられました。
・この頃になると、大陸から入ってきた『儒教じゅきょう』が広まり、天皇の功績によって、自分達の一族だけでなく、『民』も救われるという記述が多くなります。
・ところが神話ではこんな美談だけではなく、「浮気性の天皇と嫉妬深いきさき」としても描かれています。

・『仁徳天皇陵にんとくりょう(前方後円墳)大山陵古墳だいせんりょうこふん』(大阪府堺市さかいし)はエジプトのピラミッド、中国の始皇帝陵しこうていりょうと並んで『世界三大墳墓ふんぼ』と呼ばれ、当時の繁栄を物語っています。なんと完成まで20年もかかったらしいいですよ!
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【17代:履中天皇りちゅうてんのう
仁徳天皇にんとくてんのうの子で4兄弟の長男。

[こぼれ話]
当時、天皇ら皇族の顔はあまりさらされることはなく、たとえ婚姻をする場合でも、女性は天皇の顔を知らないことも珍しくはありませんでした。そんな時代のお話です。

履中天皇りちゅうてんのう』には即位する前から、『黒姫』という婚約者がいました。先代の仁徳天皇にんとくてんのう崩御ほうぎょされたため、が明けたら婚礼の儀を挙げる予定でした。そこでが明ける時期を、『黒姫』に伝えるよう弟(次男)の『住吉仲皇子すみよしなかつのおうじ』に命じました。

ところが、この『住吉仲皇子すみよしなかつのおうじ』は、こともあろうか自分が天皇だと偽って、姫を横取りしてしまいます。嘘か本当か、とばりの中では相手の顔も見えません。『住吉仲皇子すみよしなかつのおうじ』が夜明け前に帰っていくと、枕元に『住吉仲皇子すみよしなかつのおうじ』が付けていた鈴が落ちていました。

これは『履中天皇りちゅうてんのう』が、“また逢いに来てくれるというメッセージ”だと考え『黒姫』は嬉しくなりました。

ほどなくして『履中天皇りちゅうてんのう』が『黒姫』のもとを訪れます。帳の中で『黒姫』の持っている鈴が鳴り響きます。『履中天皇りちゅうてんのう』はその鈴が気になり尋ねると『殿下でんかが先日いらした時に、私に預けてくれた鈴ではございませんか、もうお忘れですか?』と、とても可愛らしく怒ります。

こうしてたくらみが露見ろけんした『住吉仲皇子すみよしなかつのおうじ』は、今度は兄『履中天皇りちゅうてんおう』の命を奪おうと兵を挙げます。履中天皇りちゅうてんのうは一旦は都を追われますが、弟(3男:のちの反正天皇はんぜいてんのう)と共に戦い、『住吉仲皇子すみよしなかつのおうじ』を下しました。

その後、『黒姫』を正式に皇后として迎え入れ、時には宮中の池に船を浮かべたり、お花見をして遊んだりと、とにかく仲睦なかむつまじく楽しい時を過ごしました。

ある日、夢に筑紫つくしの3神(宗像三女神むなかたさんじょしん)が現れ、「筑紫つくしの民を奪うなら、お前に恥をかかせるぞ」と天皇に告げました。天皇は大して気にもかけず、大好きな『黒姫』と遊んでばかりいました。
ところが、数日後、『黒姫』は急死してしまいます。天皇が筑紫つくしを調べさせると、筑紫に派遣していた臣下が勝手に土地のものを略奪していることが判明しました。

天皇はお告げがあったにも関わらず、原因を追及することも、神のたたりをしずめることもしなかった自分を責め、『黒姫』の死をなげき、悲しみに暮れたまま、1年後には天皇自身も崩御ほうぎょされました。
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【18代:反正天皇はんぜいてんのう
仁徳天皇にんとくてんのうの子で4兄弟の3男。兄は『履中天皇りちゅうてんのう』、弟は『允恭天皇いんぎょうてんのう

[こぼれ話] 天皇だって歯が命!
生まれながらにして容姿端麗ようしたんれい、特に歯が綺麗に生えそろっていて、『水歯別命みずはわけのミコト』とも呼ばれました。「芸能人は歯が命!」と言いますが、天皇は1600年以上前から「水が別!」だったんですね 笑
それにしても、産まれたてで歯が綺麗に生えてたらお母さん大変そう・・・。あっ、乳母うばさんが大変なのか!
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【19代:允恭天皇いんぎょうてんのう
仁徳天皇にんとくてんのうの子で4兄弟の末っ子。兄に『履中天皇りちゅうてんのう』『反正天皇はんぜいてんのう
・生まれつき病弱で、先代の兄『反正天皇はんぜいてんのう』の崩御ほうぎょに伴って、臣下から再三に渡り即位を促されます。しかし病弱で “歩くこともままならない” 身の上を悲観し、他の者に皇位継承権こういけいしょうけんを譲りたいと、断り続けました。
結局、後の皇后こうごうとなる『忍坂大中姫おしさかおおなかつひめ』に懇願されて即位することに・・・。
…にも関わらず、かなり強引に皇后の妹『衣通姫(そとおり姫)』をきさき(第2夫人)として取り立てます。それからは“狩り行く”と嘘をついては足しげく妹のもとへ通いました。歩けないほどなのに?へぇ~(≖ ‿ ≖)

[こぼれ話] 『衣通姫伝説』
允恭天皇いんぎょうてんのうの妃となった『衣通姫(そとおり姫)』は “衣を通しても輝くほど美しい” と言われ、その美しさは、後に『日本三美人(朝本三美人)』と称されるほどです。でも当の本人は允恭天皇いんぎょうてんのうとの婚姻を望んだわけではありませんでした。そんな気持ちとは裏腹に、『允恭天皇いんぎょうてんのう』は美しい妹ばかりを寵愛ちょうあいし、やがて姉で皇后の『忍坂大中姫おしさかおおなかつひめ』との間に確執かくしつも生まれてしまいます。

そんな中、『そとおり姫』には、互いにかれ合う、同母兄である『木梨軽皇子きなしのかるみこ』がいました。いつしか二人は密かに結ばれてしまいます。
ある朝、『允恭天皇いんぎょうてんのう』が朝食を食べようとしたところ、冬でもないのに汁物が凍っていることに気づきます。不吉な予感がして、占ってみると、『そとおり姫』と兄『かるみこ』が通じていると出ました。問い詰めると、それは真実であることが判明し、『かるみこ』は遠い国への島流しにあってしまいます。『かるみこ』を思うあまり、『そとおり姫』は命からがら脱出し、島流しの地へ渡ります。そこで再会した2人はとても逃げ切れないとさとって、そろって命を絶ってしまいました。

・神話時代に比べると、ようやくこの時代になって近縁者間の婚姻に一定のルールが出来てきたようです。でも異母兄妹の婚姻は認められていたが、同母兄妹はダメとか、何だかややこしいことになっています。禁止とは言え、実際には、この後の時代でも同じような事例はたくさんあったそうです。
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【20代:安康天皇あんこうてんのう
~血塗られた運命を背負った天皇~

木梨軽皇子きなしのかるみ』の失脚(自害)によって、後順位だった『安康天皇あんこうてんのう』が即位しました。
この『木梨軽皇子きなしのかるみこ』を島流しに追い詰め、その後死へ追いやったのが、『安康天皇あんこうてんのう』と言われています。この時から既に、血塗ちぬられた運命をたどっていたのかもしれません・・・。

即位してしばらくした頃。天皇は、弟『雄略天皇ゆうりゃくてんのう』の結婚相手を探すために奔走ほんそうします。ところが、どの皇女こうじょたちも『雄略天皇ゆうりゃくてんのう』の荒々しい気性を知っていて、怖くて誰も縁談を受けられませんでした。

ある日、『根使主ねのオミ』という使者を立て、『大草香皇子おおくさかノミコ』という近い関係にあった皇子のもとへ遣わせます。
そして『大草香皇子おおくさかノミコ』の妹『幡梭皇女はたびの皇女』を弟の妻にしたいと申し込みました。(簡単に言えば、お互いの弟と妹を結婚させたいということです。)

大草香皇子おおくさかノミコ』は病弱で、一族の行く末を案じていましたから、妹を雄略天皇ゆうりゃくてんのうの妻にすることを承諾します。そして約束の証として、家宝の『珠蔓たまかずら』を献上することにしました。

こうして『根使主ねのオミ』は無事に縁談をまとめ、献上品の『珠蔓たまかずら』を携えて、あとは意気揚々と安康天皇あんこうてんのう慶事けいじの報告!となるはずだったのですが・・・結果は違いました。
なんと、珠蔓たまかずらのあまりの美しさに目がくらみ、自分のものにしてしまいました!それどころか、天皇に対して「大草加皇子おおくさかノミコは、天皇とは同族といえども、大切な妹を嫁に出せるはずがない!と言っておりました」と嘘の報告までしてしまいます。

この嘘を信じた安康天皇あんこうてんのうは、怒って、大草香皇子おおくさかノミコの家を取り囲んで殺してしまいます。大草香皇子おおくさかノミコの家人たちは悲しみ、皇子の人柄をしたっていましたから、多くの者が後を追って命を絶ちました。
また、その様子を見ていた天皇側の兵士も、みな涙しました。

安康天皇あんこうてんのう』は大草加皇子おおくさかノミコの妻『中蒂姫命なかしひめみこ』を自分のものにしてしまいました。そして妹『幡梭皇女はたびの皇女』を弟『雄略天皇ゆうりゃくてんのう』の妻にしてしまいました。
部下に騙されたとは言え、誤って殺してしまった皇子の妻と妹を奪う形となります。この一族の恨みはやがて自分たちに返ってくることになるのです。

安康天皇あんこうてんのう』は迎え入れた妻『中蒂姫命なかしひめみこ』を、弟の『雄略天皇ゆうりゃくてんのう』も『幡梭皇女はたびの皇女』を、とても大切にしました。(最終的には)それぞれ『皇后こうごう(正室、第一夫人)』にしてしまうほどの熱の入れ様です。

ところで、『中蒂姫命なかしひめみこ』には、前夫『大草香皇子おおくさかノミコ』との間に『眉輪王まよわおう』という幼子がいました。連れ子でしたが『なかし姫』の説得もあり、宮中で一緒に暮らすことになります。

そんなある日、昼から酒を飲んで、ほろ酔いだった『安康天皇あんこうてんのう』は、『なかし姫』に「私が本当の父である大草香皇子おおくさかノミコを殺してしまったことを、いつか『眉輪王まよわおう』が知ることになったらと考えると怖いのだ・・・」と打ち明けます。
ところが、遊んでいた『眉輪王まよわおう』は偶然にも、その会話を聞いてしまいます。幼いながらに一族の悲しい運命を知った『眉輪王まよわおう』は、そのまま剣を持ち、『安康天皇あんこうてんのう』の首をはねてしまいました。そしてそのまま大臣おおおみの邸宅に逃げ込みました。

こうして、『安康天皇あんこうてんのう』の事績は、はかりごとで始まり、一族の恨みで終わるという、皮肉な運命をたどりました。

・この時『眉輪王まよわおう』若干7歳という記述もありますが、実年齢はもう少し上であったと思います。
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【21代:雄略天皇ゆうりゃくてんのう
”暴君”・・・と言ってしまって良いと思います。皇位継承権こういけいしょうけんを持った政敵を次々と殺めて、即位します。
例えば、『眉輪王まよわおう』を討ったのも雄略天皇ゆうりゃくてんのうです。この時、若年の『眉輪王まよわおう』は「天皇の位が欲しいのではない、一族の、父のかたきったのだ!」と正論をぶつけますが、雄略天皇ゆうりゃくてんのうは結局、武力で滅亡させてしまいます。
またこの一件にかこつけて、『眉輪王まよわおう討伐とうばつ加担かたんしない兄たちも次々と粛清しゅくせいしていきます。

さらに、皇位継承順位こういけいしょうじゅんいの高かった『押磐皇子おしはのみこ』を猪狩りに行こうと誘い出し、皇子に向け矢を放ちます。矢を防ぐために身を挺して皇子を守った臣下の『佐伯部さえきべ』ともども射殺して山中の穴に埋めてしまうという極悪非道ぶりでした。

・臣下や配下に対しても、些細ささいなことで怒ったり、試したり、疑ったり、時には難癖なんくせをつけて、簡単に人を殺めているイメージなんです。
たびたび「皇后こうごう」や「臣下」に諭され、いさめられ、おだてられて、振りかざした剣を収めるシーンが多く描かれています。
日本書記にはこんな一説があります。『天皇、以心爲師、誤殺人衆、天下誹謗言「太悪天皇也」』
→「(雄略ゆうりゃく)天皇」は思い込みが激しく、他人を見下すため、誤って人々を殺してしまうことが多い。世間では「最悪の天皇」と言って蔑んでいます。

雄略天皇ゆうりゃくてんのうの縁談を断った皇女こうじょたちは「朝いた者は夕方にはおらず、夕方いた者は朝にはいない(つまり殺されてしまうという意味)」だから、雄略天皇ゆうりゃくてんのうへはとつげないと言ったそうです。そりゃそうですよね、私だって無理ですよ笑
・モテなかった分、嫁に来てくれた『幡梭皇女はたびの皇女』への愛情は強く皇后こうごうとして取り立てます。暴君として恐れられた雄略天皇ゆうりゃくてんのうですが、皇后こうごうには頭が上がらず、よくいさめられる描写が出てきます。
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[神話] 暴君をも黙らせる神『一言主ひとことぬし
雄略天皇ゆうりゃくてんのう』が狩りのために『葛城山かつらぎさん』を訪れた時のことです。山で謎の一団と遭遇した天皇は、「この国は私が治めている国だぞ!」と詰め寄ります。そして互いに名を名乗り、相手が『一言主大神ひとことぬしのおおかみ』だと知り、無礼をびました。一言主ひとことぬしは“手を打って”姿を消しました。

一言主ひとことぬしは奈良県御所市ごせしの『葛城山かつらぎさん』に棲む神です。高鴨神たかがものかみ(加茂氏かも)の始祖とも言われています。
一言主ひとことぬしは名前を聞かれた際に「悪事といえども一言。 善事といえども一言。 言葉を離つ(放つ)神、葛城かつらぎ一言主大神ひとことぬしのおおかみぞ!」と名乗りをあげたそうです。
なんか、ヒーロー登場シーンのキメ台詞せりふみたいで格好良くないですか?(ひと~つ、人の世の・・・みたいな笑)
荒々しい気性の天皇が名前を聞いただけで震えあがるほどの神、『一言主ひとことぬし』ってスゴイ!

・埼玉県行田市ぎょうだしにある、『稲荷山古墳いなりやまこふん』から出土した有名な鉄剣『獲加多支鹵大王ワカタケル大王雄略天皇ゆうりゃくてんのうだと言われています。※一言主ひとことぬしとの名乗り合いで、自らを『ワカタケルの皇子ミコ』と紹介しています。
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【22代:清寧天皇せいねいてんのう

雄略天皇ゆうりゃくてんのうの子
・特に面白いエピソードもないのですが・・・強いて言えば『アルビノ』ということですかね。へぇー、天皇家でもアルビノいるんだぁ!て素直に関心しましたし。

ちなみに『アルビノ』とは、先天性の色素異常で全身(もしくは身体の一部)が“真っ白”になる現象です。

人間以外でも白い虎とか、白いライオンとか、白い熊とかいますよね。あっ、白熊はアルビノじゃないか笑 まぁそれは置いといて、神話の時代から「白い生き物」例えば“白い鹿”などは「神の遣い」として扱われました。

清寧天皇せいねいてんのうも頭髪などが生まれつき白く、生前の名は『白髪皇子(シラカミのみこ)』という名前でした。先代の雄略天皇ゆうりゃくてんのうも、霊威れいいを感じて、皇太子(次期天皇)につけたと言われています。
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【23代:顕宗天皇けんぞうてんのう
【24代:仁賢天皇じんけんてんのう
24代『仁賢天皇じんけんてんのう』と23代『顕宗天皇けんぞうてんのう』は『同母兄弟』です。つまり弟が先に即位し、兄が後から即位します。

この兄弟の父は、先々代の『雄略天皇ゆうりゃくてんのう』の政敵粛清しゅくせいによって殺された『押磐皇子おしはのみこ』です。
臣下たちは雄略天皇ゆうりゃくてんのうの更なる迫害を恐れ、2人の兄弟を遠方の播磨はりま(兵庫県明石あかし付近)に名を変えて避難させていました。
雄略天皇ゆうりゃくてんのうの死後、後継者のいなかった清寧天皇せいねいてんのうは困り果てていました。
そんなある日、皇位継承権こういけいしょうけんを持つ2人の兄弟が身を潜めて生きていたと知り、大喜びして迎えの使者を出しました。

その後『清寧天皇せいねいてんのう』が崩御ほうぎょし、帝位につくことになりました。

ここで允恭いんぎょう安康あんこう雄略ゆうりゃく清寧せいねいの血筋(皇位継承権こういけいしょうけん)は途絶えます。
安康天皇あんこうてんのう』、『雄略天皇ゆうりゃくてんのう』にかけられた“呪い”が実を結んだ瞬間だったのかも知れません。

・『仁賢天皇じんけんてんのう』は朝鮮から技術を輸入したり、国内統治を滞りなく行い、良天候も幸いして、国中が豊かで平安な時代を築きました。
普通は権力者に対して、民から愚痴がこぼれるものですよね。ところが、仁賢天皇じんけんてんのうの世は、民から「国中が平和で、稲、麦、かいこが良く採れ、役人は役人に相応しい仕事を、農民は農民の仕事を、安らかに行なっている。これもすべて天皇の仁愛のおかげだよ・・・」と言っているんです。
こんなに愛される指導者って、現代でもまれですよね。
五穀豊穣は仁賢天皇じんけんてんのうの代名詞となっています。

・兄弟は当初、皇位を譲りあっていたそうです。もう、“どーぞ、どーぞ”の状態です。

・即位後、亡き父の遺骨を探しあてるのですが、『押磐皇子おしはのみこ』と忠臣『佐伯部さえきべ』の遺骨の判別が困難だったので、同じ陵墓りょうぼを2つ造ってとむらいました。
これは現在の滋賀県東近江市ひがしおうみしにある『古保志塚こぼしつか(円墳2基)』と伝えられています。

・また「父のかたきである『雄略天皇ゆうりゃくてんのう』の陵墓りょうぼを壊してやろう!」と言ったのを兄の『仁賢天皇じんけんてんのう』が諌めたという記述が残っています。

・長い間、身分を隠して、下流社会で苦労してきた兄弟だからこそ、帝位についた後は、人民に寄り添う政治を行ったと言われています。
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【25代:武烈天皇ぶれつてんのう
・この天皇も多くの謎を残した天皇です。神話では『暴虐非道』な暴君として描かれています。

日本書紀に書かれた数々の『拷問ごうもん殺戮さつりく乱痴気らんちきぶり』は目をおおうばかりです。私は気分が悪くなってご飯が食べれなくなってしまうので、ここには書きません。キッパリ!

気になる方はグーグル先生に聞くか、ウィキペディアでも見てください Σ(・ω・ノ)ノ マルナゲ!?

とにかく、その評価として『頻造諸悪、不修一善。凡諸酷刑、無不親覽。国內居人、咸皆震怖』→『諸悪の限りを尽くし、良い行為は一切しない。人々を極刑に処して、楽しんで観ていた。国民はその行為に恐怖した』と書かれています。

この人物を、”どう捉えるか” は本当に難しいんです。

まず、悪く書かれてしまっている点について、まったくの『冤罪えんざい:作り話』であるとする説と、”いやいや実際に行われていたんでしょう”という説に真っ二つに分かれるんです!

冤罪えんざいとする大きな根拠として、こんな悪事は『日本書紀にほんしょき』にしか書かれていないんです。『古事記こじき』には8年間皇位に就いたこと、後継者(子)がないまま亡くなり、陵墓りょうぼが片岡という場所に造られたことという、わずかな記述だけなんです。ほんとこれだけ!なので、架空の天皇ではないかとも言われてしまう始末なんです。

これは後世の権力者の手によって無理やり『極悪人』に仕立てられたという説もあります。
実際に、この武烈天皇ぶれつてんのうの後は、血筋が一気に『応神天皇おうじんてんのう』系に移りますので、「武烈天皇ぶれつてんのうは悪い天皇で、血筋が絶えて当然なんだ、後を継いだ応神おうじん系列こそ天皇に相応しいんだ!」という世論を意識した創作なのかもしれないのです。

それから、こう言った残虐な行為が実際に行われていたとした場合でも、その理由を巡って論争が起きています。

まず、日本書紀の武烈天皇記ぶれつてんのうき前半では「武烈天皇ぶれつてんのうは法令に精通し、朝から晩まで熱心に職務に励み、厳格厳密な裁判を行った。どんな冤罪えんざいも見抜く力があった。」と書かれています。
つまり、「疑わしき人は、キチンと裁判にかけたうえで、法律に基づいて刑を行った。そのうえ無実の罪を見抜いて冤罪えんざいを防いだ」というのです。決してわがまま勝手に人々を虐殺したわけではない・・・と。

しかし武烈天皇ぶれつてんのうが行った拷問虐殺ごうもんぎゃくさつが、犯罪を犯した罪人に対して行われた刑罰だったとも書かれていないんでよね、これが。

そして解せないのが、その拷問虐殺ごうもんぎゃくさつを見て、「楽しんだ」とか「笑った」という記述がみられることなんです。まるでサイコパスですよ。

と、いうことで”史上最悪の天皇”と言われる武烈天皇ぶれつてんのうの本当の姿は・・・

①本物のサイコパスで、好んで人々を虐殺した史上最悪の天皇。
②残虐な行為はしたが、キチンとした裁判に基づいた刑の執行だった。
③本当はこんな行為はなかったが、後世の権力者によって極悪人に仕立て上げられてしまった。
④そもそも存在しない、架空の天皇だった。
の4パターンのうちのどれかということになるんですよね。

ところで、暴君とか、最悪の天皇とかってフレーズ・・・聞き覚えありますよね。そう、21代『雄略天皇ゆうりゃくてんのう』とかぶりますよね。じつは、この2人は同一人物で、後世の人の手で『雄略天皇ゆうりゃくてんのう』『武烈天皇ぶれつてんのう』に分けられたのではないかとも言われています。

・ところで、この時代にも、”合コン” に似たイベントがありました。
それが『歌場うたがき』です。年頃の男女が集まって、意中の相手に歌を詠むというイベントです。互いに歌を掛け合い、返事も歌で返します。当然 ”告白失敗” なんてこともあるんですよね。

手法こそ違いますが、今も昔も出逢いを求める男女の気持ちは一緒なんですね♪ そして、武烈天皇ぶれつてんのうもこんな歌場うたがきに参加していました。で、『影姫』という女性に猛アタックして玉砕ぎょくさいしています笑
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【26代:継体天皇けいたいてんのう
武烈天皇ぶれつてんのうが後継者を決めずに崩御ほうぎょしたため、次の天皇を決めなければならないのですが、皇位継承者こういけいしょうしゃがなく、臣下たちも困っていました。
そこで遠縁の皇子たちに即位を働き掛けましたが、逃げられたりと散々でした。
その後ようやく5世代も離れた15代『応神天皇おうじんてんのう』系の『継体天皇けいたいてんのう』にたどり着きます。

・特に私の興味を引く事績は見当たりませんでしたが、継体天皇けいたいてんのうの時代をひとことで言うと、、、
朝鮮と九州地方の豪族ごうぞくたちとの争いに苦心した時代ではないでしょうか。
まず、朝鮮内では『新羅しらぎ』や『百済くだら』、『加羅から』などのいくつかの小国が互いに争っていました。
百済くだらは日本にやや属する形の同盟国(※今の日本とアメリカみたいに力関係が平等ではない)です。
新羅しらぎとは敵対関係にありました。日本も決して一枚岩ではなく、地方では豪族ごうぞくたちが好き勝手なことをしていました。
その中でも九州勢が新羅しらぎと組んで(敵の敵は味方理論)天皇に逆らうなど、それぞれに入り乱れての争いをしていました。

継体天皇けいたいてんのうは27代『安閑天皇あんかんてんのう』・28代『宣化天皇せんかてんのう』・29代『欽明天皇きんめいてんのう』の父でもあります。

【27代:安閑天皇あんかんてんのう
継体天皇けいたいてんのうの長男。高齢で即位。在位わずか4年で崩御ほうぎょ

【28代:宣化天皇せんかてんのう
継体天皇けいたいてんのうの子で、27代安閑天皇あんかんてんのうの同母弟。こちらも高齢で即位し、在位3年と短命天皇でした。宣化天皇せんかてんのうが即位すると同時に『蘇我稲目そがのいなめ』が『大臣おおおみ』に就任します。大臣おおおみは天皇に変わって、政治の実務を取り仕切る役職です。

ここから『蘇我稲目そがのいなめ』→『蘇我馬子そがのうまこ』→『蘇我蝦夷そがのえみし』→『蘇我入鹿そがのいるか』という有名な親子4代の力が最高潮に達して、日本と言う国を牛耳ぎゅうじっていく時代が始まります!
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【29代:欽明天皇きんめいてんのう
27代安閑天皇あんかんてんのう・28代宣化天皇せんかてんのうとは異母兄弟です。

[こぼれ話] ~仏教の公伝~
欽明天皇きんめいてんのう』の世は、政治・宗教が大きく変わろうとしていた時代です。

この時代の政治と宗教の関係について簡単に解説しますね。
みなさんも古代人になったつもりで、イメージしてください笑

政権が樹立してしばらく経ったとはいえ、決して安泰というわけではありません。
周りには ”力をもった豪族ごうぞく” がウジャウジャいて、どいつもこいつも虎視眈々こしたんたん覇権はけんを狙っています。
油断も隙もあったもんじゃないですよね。
そんな状況で、この ”日本” をどうやって治めるか? 頭を抱えますよね。

武力で・・・でしょうか?
でも武力闘争も楽じゃありません。戦うためには費用も掛かるし、西も東も相手にしなきゃならないし、斬られれば痛いし・・・

そこで頼りにしたのが「宗教」だったというわけですね。
「神様は偉いんだぞ!みんな崇めなさい!」ってな具合に、無秩序な世の中に、”絶対的なシンボル(象徴)” を立てることで、人々を従わせようと考えました。

じゃあ、神様って誰!?
「はいはいっ!! 私の祖先が ”神様” です!」ってのが天皇家の立場ですよね。
これが、そのまま国を治める力や方法、つまり『政治』ってことになります。

蛇足だそくですが、昔『政治』のことを『政事=まつりごと』なんて呼んでいました。
”まつり” は ”まつり・まつり” であり、神にまつりを奉納することが『政治』そのものだったんですね。
豊作を祈願したり、雨乞あまごいをしたり、呪いをかけたりね。

日本という国を創ったのも、この世にある万物を作ったのも日本古来の神様ですよ!っていうのが『神道しんとう』です。

「自分たち天皇家は、”正統な神様の子孫” なので従ってね!」という政治の下で、国家統治に重要な役割を担っていた人たちもいました。それが、代々、神事しんじを”取り仕切っていた”『物部もののべ氏や中臣なかとみ氏』などの豪族ごうぞくでした。
一方で、中国や朝鮮などの ”諸外国との強い繋がり” を武器に、「最近メキメキ力をつけてきたよね!」っていう『蘇我氏そがし』などの豪族ごうぞくも現れました。

蘇我氏そがしは大陸との交易を通して仕入れた文化、特に『仏教』という新しい宗教に大きな価値観を見出します。そして「これからは仏教の時代ですよ! 中国も、朝鮮も『やっぱ仏教だよね♪』って言ってますよ! このままだと日本だけ遅れちゃいますよ!」と言って政権中枢に取り入ります。それほど大陸との繋がりをもった蘇我氏そがしの力は強大で、天皇家も諸豪族も、無視できないほどの存在でした。

こうして『廃仏派はいぶつは』と『崇仏派すうぶつは』の対立が表面化するのが、この欽明天皇きんめいてんのうの時代でした。
欽明天皇きんめいてんのう物部もののべ氏の強い説得を受け、仏教に傾倒することはありませんでしたが、その後、天皇家や諸豪族を巻き込んだ国家的な大闘争に発展していくことになります。

・仏教公伝(538)
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【30代:敏達天皇びだつてんのう
欽明天皇きんめいてんのうの子、后は33代推古天皇すいこてんのう、孫が34代舒明天皇じょめいてんのう
敏達天皇びだつてんのう』は、『廃仏派はいぶつは』の立場に立っていました。そのため物部守屋もののべのもりや中臣なかとみ氏が勢力を誇っていました。蘇我そが氏が個人として崇拝すうはいしていた仏教寺院や仏像を焼き払い、『仏教禁止令』を布きます。
蘇我馬子そがのうまこが個人的に仏教寺院を建てたのと同時期に疫病えきびょうが流行したためと言われています。

【31代:用明天皇ようめいてんのう
・『厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子しょうとくたいし』の父
・在位わずか2年で崩御ほうぎょ

『仏教』は、良いことをすれば御利益が、悪いことをすれば災いが、という様に『因果応報いんがおうほう』という考えが根底にあります。これは日本古来の『神道しんとう』にはない概念であり、仏教と比較した際の最大の弱点でもありました。
つまり、「神様は偉いよ!だから皆もついて来て!」というのが神道しんとう、「良いことすれば御利益がある、死んでもきっと生まれ変われるよ!」というのが仏教です(ざっくりでスミマセン・・・)

用明天皇ようめいてんのう』は自分の『終活しゅうかつ(臨終にむけた活動)』に際して、“救い” を求め、仏教に『帰依きえ(特定の宗教にすがること)』したいと強く望みましたが、物部もののべ氏などに反対され、結局叶いませんでした。

こんなこともあって、以後、仏教に対する人々の意識が変わっていくキッカケとなった事件でした。

【32代:崇峻天皇すしゅんてんのう
・『廃仏派はいぶつは』と『崇仏派すうぶつは』の争いが決着する『丁末ていびの乱』
神道派の『物部もののべ氏』と仏教派の『蘇我そが氏』が、大規模な武力衝突を起し、物部もののべ氏を滅亡させるという事件が起こります。(587)

[神話] 聖徳太子、仏教の加護を受ける 
蘇我馬子そがのうまこ』が皇族や諸豪族を引き連れて、『物部守屋もののべのもりや』のもとへ攻め込みます。その皇族の中には『厩戸皇子うまやどのおうじ:聖徳太子』や『泊瀬部皇子はつせべのおうじ:32代 崇峻天皇すしゅんてんのう』の姿もありました。物部守屋もののべのもりやは果敢に戦い、自ら先頭に立って矢を射続けます。あまりの勇猛さに、蘇我そが勢は一旦退却を余儀なくされます。
そこで『厩戸皇子うまやどのおうじ(聖徳太子)』は仏教神の加護かごを得るべく、木を伐り、四天王像を作って「私が勝利すれば、仏殿を造り、教えを広めましょう!」と言い、勝利を祈願します。そうして放った矢が見事に物部守屋もののべのもりやに命中し、一気に形勢は逆転、物部もののべ氏は滅亡することになります。
その後、厩戸皇子うまやどのおうじは約束通り、摂津国せっつのくにに『四天王寺してんのうじ』を建立し、仏教を広めていったそうです。

蘇我馬子そがのうまこによって暗殺される。
馬子うまこは『崇峻天皇すしゅんてんのう(初瀬部皇子はつせべのおうじ)』を推して即位させましたが、実権は馬子うまこが握っていて、崇峻天皇すしゅんてんのうはこれを不満に感じていました。やがて崇峻天皇すしゅんてんのうVS蘇我馬子そがのうまこという敵対関係が顕著化し、天皇暗殺という後にも先にもない事件が発生します。(592)
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≪飛鳥時代~≫

【33代:推古天皇すいこてんのう(古事記はここまで)
蘇我馬子そがのうまこに推され即位。29代欽明天皇きんめいてんのうの子、30代敏達天皇びだつてんのうきさき
初の女性天皇
厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子摂政せっしょうとする。
遣隋使けんずいしの派遣(600~ ※小野妹子おののいもこが有名)
・『冠位十二階かんいじゅうにかい』(603)『憲法十七条けんぽうじゅうななじょう』(604)
・『法隆寺』創建(607)

[こぼれ話] ~蘇我氏の専横~
聖徳太子が死去すると、もう蘇我氏そがしを抑えられる者がいなくなります。
馬子うまこから蝦夷えみしに代替わりすると。その勢いは天皇もしのぐほどにふくれ上がりました。
権力を手にすると暴政になるのが世の常ですよね。
次代『舒明天皇じょめいてんのう』や35代『皇極天皇こうぎょくてんのう』の時代になると、蘇我そが一族の陵墓りょうぼを作るために勝手に天下の人民を動員したり、天皇の許可も得ずに『入鹿いるか』を『大臣おおおみ』に任命するなど、暴走機関車のようになっていきます。

【34代:舒明天皇じょめいてんのう

推古天皇すいこてんのうの後、蘇我蝦夷そがのえみしに推され、後継者争いの末、即位。
・温泉好きの天皇という可愛らしいエピソードも。
皇極天皇こうぎょく(斉明天皇さいめいてんのう)を后とした。
遣隋使けんずいしの派遣(630年~ 犬上御田鍬いぬがみのたすきが有名)
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【35代:皇極天皇こうぎょくてんのう
舒明天皇じょめいてんのうの后。蘇我入鹿そがのいるかが政権実務を担う。

・この頃、「干ばつ」があり蘇我そが氏が祈祷したが、翌日わずかに降っただけですぐやんでしまった。
ところが、皇極天皇こうぎょくてんのう祈祷きとうすると、たちまち雨雲が立ち昇って5日間も降り続いたという逸話いつわが残っています。

[こぼれ話] ~宮中クーデターと蘇我氏の滅亡~
・『蘇我蝦夷そがのえみし』は蘇我そが氏の血を引く『古人大兄皇子ふるひとおおえのみこ』を皇位に付けようとくわだてました。
一方で『入鹿いるか』は有力な皇位継承権こういけいしょうけんを持つ、聖徳太子の子『山背大兄王やましろのおおえのおう』を襲い滅亡させてしまいます。
蘇我そが氏の暴政に堪えかねて『中大兄皇子なかのおおえのおうじ』、『中臣鎌足なかとみのかまたり』らは共謀し、宮中で『蘇我入鹿そがのいるか』を斬殺してしまいます。
翌日には父『蝦夷えみし』が追い詰められ自害し、蘇我そが氏が滅亡します。(乙巳の変いっしのへん:645) これ以降、中大兄皇子なかのおおえのおうじを中心にした国政改革『大化の改新たいかのかいしん』が行われていきます。

・初の譲位じょうい(生きている内に天皇を退く)を行なう。

【36代:孝徳天皇こうとくてんのう
・皇極天皇の弟。中大兄皇子なかのおおえのおうじらと皇位を譲り合ったが、最終的に孝徳天皇こうとくてんのうが即位しました。
中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたりらを中心として戸籍や税制を見直したり、天皇や豪族ごうぞくも葬儀や陵墓りょうぼを質素なものにする決まりや、役人に対するいましめ、その他 ”生活全般” の様々なルールを作っていきました。
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【37代:斉明天皇さいめいてんのう
・35代、皇極天皇こうぎょくてんのうが再び即位して斉明さいめいとなる(重祚ちょうそ)
・天智(中大兄皇子なかのおおえのおうじ)/天武(大海人皇子おおあまのおうじ)の母
中大兄皇子なかのおおえのおうじが政務を担当。

・この天皇は工事好きで知られています。
→「狂心の渠たぶれこころのみぞ
※華やかな都を目指し、溝の工事に3万人、宮の一角の石垣を築くのに7万人を動員し、石を運ぶのに船200隻を並べたとする記述があります。この無謀な工事に人民は反発し『狂心たぶれこころ』と揶揄しました。

・このような大規模工事(贅沢)は、今まで『蘇我そが氏』によって抑え込まれていた『天皇家』の権力が、蘇我そが氏の滅亡によって盛り返してきたためとも言われています。
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【38代:天智天皇てんちてんのう
中大兄皇子なかのおおえのおうじのことであり『大化の改新たいかのかいしん』を起す(645)
律令りつりょう体制の確立に尽力
・「百済くだら」支援で「とう新羅しらぎ連合」に大敗。
→「白村江はくすきのえの戦い」(663)

[こぼれ話] 『防人さきもりの歌』悲しい歴史
これまで朝鮮との関係で優位に立っていた日本が、白村江はくすきのえの戦いで大敗したことは、それはそれは大きな衝撃でした。国内は混乱し、中央政権内はパニックに陥ります。

それもそのはず、今度はとう新羅しらぎが日本に攻め込んでくるかもしれないんですから! そこで、九州沿岸や対馬つしまなどに防衛のための城砦『水城みずき』や兵士『防人さきもり』を配置するなどの大掛かりな措置を取りました。

歴史の授業で聞いたことぐらいはあると思いますが、この『防人さきもり』には人々の多大な犠牲のうえに成り立っていました。主に静岡や関東の国の住民が、遠く離れた九州や対馬つしままで駆り出されました。途方もなく遠い場所です。

暑い日も、寒風吹きすさぶ冬の日も、遥か海原を眺めて防衛にあたる海岸線の任務は過酷を極めました。税の免除もないまま、旅費や任務中の食糧の調達まで、個人がすべて負担しなければなりませんでした。それよりも防人さきもりたちを追い込んだのは、故郷に残してきた親や妻、子供たちへの思いでした。

こんな極限の中で、防人さきもりたちの心の叫びとも言える歌が『万葉集』には100首以上も収められています。

「わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず」

私の妻はとても恋しがっているんでしょうね。(私も)飲もうとする水に(妻の)影が浮かんで見えて、一日たりとも忘れられない。
「唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして」

衣の裾にしがみついて泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまった、母もいないのに。

(645)大化の改新のキッカケとなる宮中クーデター「乙巳の変いっしのへん」以降、(叔父おじ)孝徳こうとく・(母)斉明さいめいと2代の天皇のもとで、大臣おおおみや皇太子として長い間、陰で実権を掌握しつつ、何故か皇位につきませんでした。668年にようやく即位。変から実に23年も経っています。

「秋の田の 刈穂の庵の 苫をあらみ わが衣手は露に濡れつゞ」
(あきのたの かりほのいほの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ)

秋の田の側につくった仮小屋に泊まってみると、屋根をふいた苫の目があらいので、その隙間から忍びこむ冷たい夜露が、私の着物の袖をすっかりと濡らしてしまっているなぁ。

百人一首の1番札)天智天皇が詠んだ有名な歌です。

優美な歌ですね・・・。朝廷の失策で駆り出される『防人さきもり』の歌が、朝廷の人に届くことはなかったのでしょうね。
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【39代:弘文天皇こうぶんてんのう
大友皇子おおとものおうじのこと。こっちの方が有名?
父の『天智天皇てんちてんのう』にとても可愛がられ、次期天皇(皇太子)で叔父おじの『大海人皇子おおあまのおうじ天武天皇てんむてんのう』との間で確執かくしつが生まれます。

実際に即位したかは不明です。
理由として「日本書紀」には即位したという記載がないからなんです。

天智天皇てんちてんのうの没後、『大海人皇子おおあまのおうじ(天武天皇てんむてんのう)』に敗れ亡くなる。(672)

 

【40代:天武天皇てんむてんのう
天智天皇てんちてんのうの弟で、名前を大海人皇子おおあまのおうじといった。
・『壬申の乱じんしんのらん』を起して、大友皇子おおとものおうじ(弘文天皇こうぶんてんのう)を敗る(672)。
・『飛鳥京あすかきょう遷都せんと
日本書紀にほんしょき』『古事記こじき』の編纂へんさんを命じる。


【41代:持統天皇じとうてんのう

天智天皇てんちてんのうの娘であり、天武天皇てんむてんのうきさきでもある。
・『藤原京ふじわらきょう遷都せんと(694)
・国名を『』から『日本』にした天皇と言われています。

藤原京跡

「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
(はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかぐやま)

もう春は過ぎ去り、いつのまにか夏が来てしまったようですね。香具山には、あんなにたくさんのまっ白な着物が干されているのですから。

こちらは(百人一首の2番札)、持統天皇が詠んだ有名な歌です。

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凛のホッと♡一息コラム 『天皇の名前』

天皇の名前は『おくり名』ですよね。

これは、崩御ほうぎょや、譲位じょういによって天皇ではなくなった段階で、後世の人が『贈る名前』のことです。なので在位中に自分が「○○天皇」と呼ばれることはありませんし、名乗ることもありません。

さて、この『おくり名』ですが、どんな名前にしようかと思案する際、何を意識していると思いますか? みなさんならどうでしょう? なんとなく“その人っぽい”名前を考えるんじゃないでしょうか。

つまり、『おくり名』は生前の天皇の功績や人柄によって、人々が受けるイメージを反映しているといっても過言ではありません。

例えば!
『仁』という字は「思いやり」や「慈しみ」という意味があります。この字がついている天皇はなんとなく人に優しいのかなぁ~とイメージしますよね。
では実際に見てみましょう。

11代「垂仁天皇すいにんてんのう」・・・苦しむ人を見て、『殉葬じゅんそう』を禁止しました
16代「仁徳天皇にんとくてんのう」・・・人々の暮らしを憂いて税の減免措置。『聖帝ひじりみかど』と呼ばれました。
24代「仁賢天皇じんけんてんのう」・・・民から愛された五穀豊穣ごこくほうじょうの天皇。
・・・ね、『仁』の付く天皇は優しいでしょ!

他にも!
10代『崇神天皇すじんてんのう』なんて、そのままズバリ「祟り神=たたりがみ」ですよ!なんて名前つけるんだ! オオトモヌシにたたられたから?それとも、それが元で神をあがめたから?
案外「変な名前つけたらたたってやるからな!」といって亡くなったので、臣下が「じゃあ祟り神たたりがみでいいんじゃね?」となったのか!?

いえいえ、この時代に起こった数々の災いを「神の祟りだ!」と叫び、心を病んでしまったから・・・らしいですよ。

13代『成務天皇せいむてんのう』も務めや政治に大きく貢献して成り立たせたことを称えた名前です。くにあがたを整備し、律令りつりょう国家のいしづえを築きましたよね。
26代『継体天皇けいたいてんのう』は世継ぎがなく、天皇『体制』をどうにか『継続』させるために遠縁の皇子みこを引っ張ってきた背景があります。

その他、『武』や『雄』などは戦いや力などが特徴だと分かります。

いかがだったでしょうか?
「名は体を表す」と言いますが、是非そんな視点で「歴代天皇の名前」を眺めてみてください。意外と面白い発見があるかも知れませんよ。
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凛のホッと♡一息コラム
『伊勢へ七度、熊野へ三度♪』

『伊勢へ七度ななたび、熊野へ三度さんど愛宕あたごさまには月参つきまいり♪』
陽気なリズムで始まりました、今回のコラム!

こんにちは、凛です。

冒頭に出てきた『伊勢へ七度ななたび、熊野へ三度さんど~』という歌は「十返舎一九じゅっぺんしゃいっく」作の『東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ』という「滑稽本こっけいぼん(小説のことですね)」に出てくる一節です。

当時、伊勢参りに行くということは、今でいう “海外旅行” に行くみたいな “贅沢なイベント” でした。当然、誰でも行けるわけではありません。なので、「1生のうちに伊勢には7回くらい、熊野には3回くらいは行きたいものだなぁ」という人々の憧れが表現されていたんですね。

現代では、信仰心の深いことを意味する格言としても使われています。

さて、そんな江戸時代の人々の憧れの場所だった『伊勢神宮』についてのお話を、今回は書かせていただきますね。

まず、伊勢神宮は親しみを込めて「お伊勢さん」なんて呼ばれていますが、神社としては別格中の別格で、色々な参拝ルールがあるんですよね。

例えば!
伊勢神宮は大きく『内宮ないぐう』と『外宮げぐう』に分かれていて、参拝の順番としては『外宮げぐう』を詣でてから『内宮ないぐう』を詣でます。逆順参拝や内外どちらかを参拝する(片参かたまいり)はタブーとされています。

また内宮、外宮げぐうともに『ご正宮せいぐう』を中心に『別宮べつぐう』や『摂社せっしゃ』『末社まつしゃ』と枝分かれしていきます。その数なんと125社!これをすべて合わせて『伊勢神宮』と呼ばれるんです。

神話の中でも出てくる『五十鈴川いすずがわ』、内宮ないぐう参りの前に心を清めに行ってください。また『滝祭神(たきまつりのかみ)』は『アマテラス』に取り次いでくれる神様なので、こちらも内宮ないぐう参りの前に参拝しましょう。

・大昔、伊勢神宮は天皇だけが参拝できる特別な場所でした。その名残なごりもあって、今でも賽銭さいせんを投げて私的な “お願いごと” をすることはダメなんですよね。これは『私幣禁断しへいきんだん』といって、基本的には日頃の感謝をする場所なんですよ。あっ、もちろん賽銭箱さいせんばこなんてものもありません。
どうしても個人的なお願いがあるかたは、別宮べつぐうの方で、こっそりと・・・。

・参道は神様が通る道なので、“真ん中を歩かない”というのは、どこの神社でもおなじですよね。伊勢神宮は真ん中禁止はもちろんとして、外宮げぐうでは左側、内宮ないぐうでは右側を歩きます。

・・・と、まぁ他にもルールや見どころも多い伊勢神宮ですが、ここからは、神話をもとにお話ししますね。

まず、”伊勢” と言えば、神話では『アマテラス』より先に鎮座ちんざした神がいませんでしたっけ? そうです『猿田彦大神さるたひこおおかみ』ですよね。天孫降臨てんそんこうりんの時に、天上界の神々の道案内をして、その後「伊勢の五十鈴川いすずがわの上流に向かいます」といって去った神ですよね。
(物語では海で溺れて泡になりましたが)

この猿田彦さるたひこの子孫の大田命おおたのみことが、『アマテラス』をまつる地として『ヤマト姫』に五十鈴川いすずがわの上流の地を献上したと古文書もあります。

伊勢やアマテラスと縁が深い神ですが、この「猿田彦さるたひこ」をお祀りする『猿田彦神社さるたひこじんじゃ』が伊勢神宮の内宮ないぐう近くに鎮座ちんざしています。
それから、『出雲大社いずもおおやしろ』は60~70年に1度、ご神体しんたいを別の社殿へ移す『遷宮せんぐう』が行なわれていましたよね。

ここ『伊勢神宮』でも『式年遷宮しきねんせんぐう』が20年ごとに行われています。これは神話にも出てきた40代『天武天皇てんむてんのう』(=日本書記にほんしょき古事記こじきを作らせた天皇)が『20年に1度やるぞ!』と決めて以来、第1回目の『持統天皇じとうてんのう』から、2013年の『第62回・式年遷宮しきねんせんぐう』まで1300年以上もの間、脈々と受け継がれています。

やっぱり、これって凄いことですよね。

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